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慶應義塾

第9回 庆应义塾体育会の轨跡/「空手道」の生みの亲/空手部

公开日:2022.05.11

执笔者プロフィール

  • 横山 寛(よこやま ひろし)

    ミュージアム 福澤諭吉記念慶應義塾史展示館専門員

    横山 寛(よこやま ひろし)

    ミュージアム 福澤諭吉記念慶應義塾史展示館専門員

2022/05/11

画像:昭和9(1934)年経済学部卒业アルバムより。中列の背広が部长粕谷真洋、その左が师范船越义珍。(福泽研究センター蔵)

唐手(からて)研究会を前身とする空手部は昭和7(1932)年、师范?船越义珍(ふなこしぎちん)、部长?粕谷真洋(かすやまひろ)の体制で体育会に加入した。草创期の空手部において决定的な役割を果たした両者を中心にその轨跡を辿ると、それは日本本土における空手の草创期とも重なるのである。

冲縄で独自に発展した唐手术が本格的に日本本土へ绍介されたのは、大正11(1922)年文部省主催の第一回体育展覧会であった。そこへ冲縄尚武会会长富名腰义珍(のち船越と改姓、以下船越と表记)が参加したことをきっかけに日本本土への普及が始まる。明治元(1868)年琉球の首里山川村(现那覇市)に生まれた船越は、小学校の教员を务める一方で首里の大家?安里安恒(あさとあんこう)や糸洲安恒(いとすあんこう)に唐手を学び、退职后も唐手の指导を続けていた。そうした折、冲縄県学务课の依頼で上京、体育展覧会に参加したのである。船越はそのまま本土にとどまり、讲道馆、陆军戸山学校など様々な场所で讲演?実演を重ね、そのときの縁で最初の着书『琉球拳法唐手』を出版した。これが船越と义塾を结ぶ。

大正11年秋顷、同书を手に取り唐手を知った庆应义塾大学予科教授の粕谷真洋は、自ら実践、それに饱き足らず船越を访问して门下となった。そして修练を积んで自信を深め、庆应义塾へ持ち込むことを决意する。彼は学生へすすめて创立委员とし、大正13年10月15日、庆应义塾唐手研究会を创立、船越を师范に招いたのである。本土で初めて大学につくられた唐手の団体であった。昼休みに柔道场を借りて行う活动は讲习会的なものが多く、当初は部员の出入りも激しかった。知名度は低く、「家庭ダンス」と嘲笑されることもあったという。昭和2(1927)年には叁田の大讲堂で初の演武会を开き、翌年には専用の练习场所として、纲町运动场の物置を借りて小道场とした。

こうして迎えた昭和4年は、唐手研究会が空手研究会へ生まれかわり、「唐手術」から「空手道」への変更を宣言するエポックメイキングな年となった。新年度最初の稽古日である4月15日の日誌には、中国風を除くため「今学年より断然『唐手』を『空手』に改む。読方は同じ」とある。ここから「空手」が使われ始め、10月20日の創立5周年記念大会で部員下川五郎が「空手道」への変更を宣言した。船越も空手は禅に発すること、「拳禅一致」「術は末で 技術よりも心術」など、その精神を語っている。ここに武道としての「空手道」が誕生したのである。精神修養、人格形成により重きを置くことがそのねらいであった。この頃は戦前の武道統轄団体である大日本武徳会が従来の「柔術」?「剣術」?「弓術」の名称を「柔道」?「剣道」?「弓道」へ変更し、一般へもそれが浸透していた時期で、唐手術の「空手道」化はこうした潮流に沿うものだった。昭和5年には空手研究会誌『こぶし』を創刊、創刊之辞には「冷静なる科学者の態度」で空手を解剖批判して、改善に改良を重ねていく旨が語られている。あくまでも「研究会」であることが強く意識されていた。

その后、空手研究会は一层の活动の充実のため体育会加入を求めた。その愿书ではラグビー、ウォーターポーロ(水球)、硬式テニス等を例に挙げ、新しい竞技を积极的に採用してきた义塾体育会の精神にかなう存在と自らを位置づけている。しかし体育会では入部に慎重论もあり、昭和7年2月、ひとまず庆应义塾体育会塾内対抗竞技部空手会と改称して体育会に置かれた。このとき初めて体育会に「新种目団体」が设けられ、その最初の団体となり、同年秋には正式に体育会加入が决定、体育会空手部は诞生した。空手部はこれを「我国空手道史上画期的の一大快事」と喜び、日顷のモットーたる「塾生体育のより広き普及向上」「真の空手道は义塾より」を彻底すると誓った。実际普及にも积极的で、动画の撮影も趣味の粕谷は、空手の宣伝映画の制作、映写会なども行った。

こうして「空手道」の生みの親たる空手部の基盤は確立した。その後、昭和10年に船越の著書『空手道教範』が出版され、昭和11年には空手部として350頁におよぶ 『空手道集成』を完成させた。巻頭には「空手道に対する慶應義塾の使命」と題する一文を掲げ、広く国民への普及?体育の向上を誓った。同年、発祥の地?沖縄でも正式に「唐手」から「空手」へと表記が改められるなど、義塾由来の「空手道」は急速に全国へ普及、定着していったのである。このような「空手道」の草創エピソードからは、空手を科学し、普及を使命として真摯に向き合う部員の姿が浮かび上がってくる。

※所属?职名等は本誌発刊当时のものです。