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慶應義塾

小松 百华:プロデューサー蔦屋重叁郎が手がけた二人の浮世絵师、歌麿と写楽

公开日:2025.07.09

2025/07/09

画像:撮影 村松桂(カロワークス)

2025年、狈贬碍の大河ドラマ「べらぼう」の影响もあり、全国各地のミュージアムにおいて浮世絵が主役の展覧会が相次いで开催されている。庆应义塾ミュージアム?コモンズ(碍别惭颁辞)でも浮世絵の二大巨匠、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)(1753?~1806)と东洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)に焦点を当てた展覧会「」を6月3日(火)から8月6日(水)まで开催している。7月7日(月)からは后期展示が始まり、出展作品の大半が入れ替わるため、既に来馆された方にも、これからお越しくださる方にも新たな発见を提供できる内容となっている。本展では、歌麿と写楽という2人の浮世絵师に焦点を当てる一方で、彼らを世に送り出した版元?蔦屋重叁郎(つたやじゅうざぶろう)(1750~97)の存在が重要な键を握っている。

蔦屋重叁郎は、吉原大门付近に书店を构え、『吉原细见』という吉原游郭のガイドブックを刊行するところから出版活动をスタートさせた。今回の展示では、庆应义塾図书馆の渋井清コレクションより、细见4点を展示している。そして天明年间には狂歌が江戸の庶民の间で流行し、その波に乗って蔦屋は狂歌絵本を出版する。その挿絵を担当したのが、若き日の歌麿であった。『潮干のつと』(寛政元年)に见られる繊细な笔致で描かれた贝殻は、のちの美人画に通じる歌麿の観察眼の萌芽を示す好例だろう。

出版业で成功を収めていた蔦屋であったが、松平定信による寛政の改革によって大きな打撃を受ける。蔦屋は书籍絶版の上、重过料としてかなりの资产を没収されたとも伝わる。风纪取缔の强化により书籍出版が困难となるなかで、蔦屋は浮世絵に活路を见出すのである。

狂歌絵本で歌麿の才能を见出していた蔦屋は、美人の半身像を大判锦絵に描く「美人大首絵」の刊行を开始する。女性の感情の机微までも捉えた作品は、江戸の庶民から热狂的に受け入れられた。しかし、その人気ゆえに幕府の规制対象となり、作品中にモデルの名前を记すことが禁じられる。名前を判じ絵で暗示するなど、苦肉の策で工夫を凝らすも、最终的には大首絵そのものの刊行が禁止されるに至った。

その矢先、蔦屋自身も没するが、歌麿は美人画制作への意欲を失わず、幕府が重んじた儒教的価値観に着目し、新たな作品群を発表していく。「教训亲の目鑑が俗ニ云ぐうたら兵卫(きょうくんおやのめがねがぞくにいうぐうたらべえ)」(図1)では、亲の目线から娘の性格を戒める词书とともに、これに反発するかのような娘たちの生き生きとした表情が描かれた作品である。また晩年には、儒教の亲子爱に通じる、母と子の爱情を主题とした母子像に画业の集大成を见出した。しかしながら、禁じ手であった『太閤记』を题材にした作品を発表したことで処罚を受け、间もなくこの世を去った。

図1 喜多川歌麿画「教訓親の目鑑 俗ニ云ぐうたら兵衛」享和2年頃、大判錦絵、慶應義塾蔵

一方、歌麿が美人画で人気を博していた寛政6年、彗星のごとく登场したのが东洲斎写楽である。写楽を大々的に売り出した蔦屋は、歌麿の美人大首絵で确立した表现手法を写楽の役者絵に応用している。云母の背景に歌舞伎役者の半身像を浮かび上がらせ、迫力ある作品に仕上げたのだ。たとえば「松本米叁郎のけわひ坂の少将実少は松下造酒之进妹しのぶ(まつもとよねさぶろうのけわいざかのしょうじょうじつはまつしたみきのしんいもうとむすめしのぶ)」(図2)では、女形役者の大きな鼻やつぶらな瞳、そして乱れた髪の毛を忖度せずに描き出している。写楽の斩新な浮世絵は话题となるが、その夸张した描写は徐々に饱きられてしまい、わずか10か月で姿を消す。

図2 东洲斎写楽画「松本米叁郎のけわひ坂の少将実は松下造酒之进妹娘しのぶ」寛政6年、大判锦絵、个人蔵

长らく正体不明とされていた写楽であるが、近年の研究により、阿波藩お抱えの能役者?斎藤十郎兵卫(さいとうじゅうろべえ)(1763~1820)であったことが判明している。能役者としての立场から、歌舞伎へのシニカルなまなざしが注がれていたのかもしれない。

本展では、蔦屋の慧眼によって世に送り出された歌麿と写楽の作品に加え、同时代の絵师による优品も展示している。当馆は入场无料であるため、多くの方に気軽に足を运んでいただき、芸术体験の一助となれば幸いである。

※所属?职名等は本誌発刊当时のものです。