画像:1963(昭和38)年
(当初は、跨线桥で芝浦口改札にもつながっていたが、东西を行き来する自由通路は无かった。改札が2阶に上がって统合され、自由通路ができたのは1971年2月。1994年10月には叁田侧の国道15号をまたぐデッキができて人の流れが大きく変わった。2003年2月、东西自由通路の幅は広がり、现在に至る。)
昭和32年当时の田町駅西口を出ると、まず目に飞び込むのは建设中の东京タワーでした。それを横目に见ながら商店街を抜けて、完成したての中等部のモダンな校舎へ登校していました。鉄不足の日本が、朝鲜戦争で使った戦车の廃材も利用した东京タワーは、まるで高度成长のバロメーターの如くに、日に日に高くなるのを校舎のてっぺんからワクワクしながら眺めていました。
清家前塾长が「半学半教」の福泽精神を语られる中に、「中等部では生徒が先生を「さん」付けで呼びますし、教坛がない。生徒と先生が同じ高さで学ぶという庆应义塾の伝统がよく引き継がれています」(「週刊ダイヤモンド」、2016年)と言われましたが、校则も特に无い中等部は人间関係がフラットで男女の别もなく、40代になった私に同窓会长の役目が回ってきました。初仕事は中等部の前身の「庆应义塾商工学校」同窓会への出席でした。その学校が歴史を闭じた年に当时の1、2年生が创成期の中等部の2、3年生となり、担任が池田弥叁郎さん、音楽は芥川也寸志さんという中等部の斩新な校风の原点がありました。また商工学校には「叁田商店街」の生徒さんも通っていました。
过日、仲通りの入口近くにある「まつや」の木野さんに、当时のことを伺ってみると、駅西口には「雑鱼场」と呼ばれた鱼市场のような所がありましたが、そこは芝浦侧がすぐに东京湾だったので、获れた鱼は电车の线路の下をくぐって西口侧の船着き场に运ばれ、売られていたとのことで、私のおぼろ気な记忆が确认できました。木野さん达の子供时代は、「雑鱼场」から叁田の山、纲町一帯はすべて游び场だったそうです。その纲町グラウンドには弓术部の道场があり、私が部员だった当时は女子の更衣室がなく、高村象平塾长の运転手さんのお住まいの一隅をお借りして毎日、袴に着替えていました。ここでもう1つ「庆应仲通り商店街」を入ってすぐ脇にあった何故か心惹かれる存在感の小さな祠のことに触れましょう。それは火伏せの神をお祀りした「茶ノ木稲荷神社」です。商店街の皆さんが大事にお守りしていたおかげで、东京大空袭でも庆应义塾を含む一帯は焼かれずに残ったのだそうです。この有难いお稲荷さんは2019年、仲通りの巌流稲荷社に合祀され、今でも「守护神」として田町界隈をずっと见守り続けてくれています。私も久しぶりに手を合わせて、空袭当时のお礼と、母校の益々の発展を祈ってまいりました。
(1966年叁田会会长 吉冈和子)
※所属?职名等は本誌発刊当时のものです。