女子学生ルームは1963年に山食内の南隅に新設。準備委員会は9月の利用開始前に「女子学生の就職講座」を5回開催し、働く先輩の意見を聞いた。1963年2月末の学部学生数は21,748名。うち女子学生は1,723名だった。ルームは1991年秋、山食取壊しまで存続し、終盤は通信教育课程夏期スクーリング中の授乳等の場所として母親学生会に貸し出された。
ある日突然、庆应の広报室からお电话を顶きました。「1963年に女子学生ルームの就职讲演会で学生相手にお话しくださいましたね」「??いえ记忆にございません」「その时のお写真に千野さん(旧姓)とお名前があるので确かです」。ということから、私は、十年ひと昔として、六昔前の记忆をたどり、当时の就职难の时代、右往左往した様子を思い出すことになりました。今でも年配の方からご卒业は何年ですか? と问われ「昭和36年です」と答えますと「あの年は女子の就职は大変でしたね」と言われることがあります。その年の女子の採用はマスコミ関係では放送局のアナウンサー职だけだったのです。全体数は分かりませんが、就职を希望する女子学生が多数駆けつけたようです。その「时」は、あっという间にやって来て、几つかの放送局を走り回って、嵐のように去っていきました。落ち着いた时には気の抜けたような疲労感と、充足感が残りました。
当时女子学生が増えたとはいえ学内で女子が集まって话し合うということもなく、就职时に意见交换した记忆もありません。新闻の求人栏を见て海外特派员の秘书の职に就いた人。母校に教师として採用してくれるように頼み込んで职を得た人。それぞれ努力し、闘争をしていたのです。
狈贬碍に入局した当时、就职をするということは当然定年まで勤めることと思っていましたが、先辈の男性が私の颜を覗き込み「あんたかね定年まで勤めるというのは」と言われた时は心が冷える思いがしました。また、女性が集まって话し合うことも多く、なんとなく鬱陶しさを感じて先辈にもらしたところ「女はまだまだ职场内でも立场が弱い。だからこそ时としてまとまることは必要なのよ」と言われ女の集団の重さも味わいました。
丁度この顷ですね「女子学生ルーム」が出来たのは。女子学生にとってはとても心强かったと思います。写真から见る学生たちの、不安そうな表情の中にも未来への期待が感じ取れる眼差しに胸が热くなります。出席していらっしゃった方々の「今」が気になります。それにしても、私の记忆に残っていないこの集会の贴り纸のこと、ご存じだったらご一报くださると嬉しいです。
(元狈贬碍アナウンサー 桥本润子)
※所属?职名等は本誌発刊当时のものです。