庆早戦の歴史
1996/09/01
『塾』1996年 No.200 掲載
明治初期、アメリカ帰りのエリートによって伝えられたスポーツ、野球。
草创期の日本野球界をリードした第一高等学校(现东京大学)から、やがて私学の両雄?庆应义塾と早稲田が覇権を夺う。
その両校が対戦する庆早戦の始まりこそが、日本でこれほどまでに野球が広く亲しまれるようになった契机である。
庆早戦の辉かしい歴史と伝统は、日本の野球史そのものと言っても过言ではない。
义塾の野球は、明治17年ごろアメリカ人のストーマー氏に初めて指导を受けて塾生の间に広まり、21年、叁田べースボール倶楽部が组织されたのが第一歩。次第に実力を蓄え、ともに台头してきた早稲田大学野球部の申し出に応じ、明治36年、初の庆早戦が実现した。以后両校は毎年対戦し、庆早戦の世评はますます高まっていった。
明治39年秋、1胜1败の后の3回戦前、両校の応援団の热狂が极に达し、危険な状态になっていた。両校は协议の末やむなく试合を中止。その后、両校の対戦は20年间にわたり中断されてしまった。
庆早戦は大正14年秋にようやく復活、东京六大学野球连盟成立とともに、翌15年春からリーグ戦の一部として行われるようになった。六大学野球、特に庆早戦は当时のスポーツ界最大の行事であり、昭和4年秋には天覧庆早戦が行われるほどであった。しかし、一般学生や私设応援団の応援が年々はでになり统制も欠いたため、义塾学会连合委员会は昭和8年、常设の公认団体「庆应义塾大学应援部」を设立。塾长は指挥棒を与え、健全な発展を期待した。
だが、その秋の庆早戦3回戦でいわゆる“リンゴ事件”が起こる。9回表の守备についた义塾?水原茂3塁手が、早稲田応援席から投げ込まれたリンゴの芯を投げ返し、しかも9回里に义塾が逆転胜利したため、兴奋した早稲田応援団の一部が试合终了后、义塾侧に杀到、指挥棒を夺い去ったのである。
戦时中の昭和18年秋には、戦地におもむく学生のはなむけにしようと「出阵学徒壮行庆早戦」が行われた。时节柄多くの曲折があったが、开催を热望する両校関係者の努力により早稲田戸塚球场にて実现のはこびとなった。结果は早稲田の胜利だったが、试合终了后どこからともなく沸き上がった「海行かば」の歌声は球场全体を包み込み、剧的感动に満ちた戦争中最后の试合として人々に记忆されることになる。また、终了后球场を去る庆应の学生が、下敷にした新闻纸を屑篭に収めるなど、庆应の観戦态度について“実に敬服に値するもの”と、『早稲田大学野球部五十年史』に记録されている。昭和20年11月18日、终戦后初の试合として全庆早戦が行われ、翌21年春に再开した六大学リーグ戦で义塾が优胜を饰る。以后今日に至るまで、庆早戦は数々の名胜负を生み、学生野球界に辉かしい歴史を刻み続けている。
项目1 | 项目2 |
|---|---|
1888年 | 叁田ベースボール倶楽部を组织。これを野球部元年とする。 |
1892年 | 体育会创立と同时に体育会野球部に。 |
1903年11月21日 | 第1回庆早戦を叁田纲町で行い、11-9で胜つ。 |
1906年 | 庆早戦は决胜戦の前日に中止され、以降20年断絶。 |
1925年 | 20年ぶりに庆早戦復活。帝大の加盟で6大学リーグがスタート。 |
1927年 | 応援歌「若き血」ができる。 |
1929年 | 天覧试合の庆早戦12-0で快胜。 |
1933年 | 秋、庆早戦で、“リンゴ事件” |
1943年 | 东京六大学野球连盟解散。10/16学徒出阵送别庆早戦。 |
1945年 | 戦后初の野球试合、神宫で全庆早戦。 |
1960年 | 秋、庆早戦は庆早が同率となって优胜决定戦を行なったがなお2度引き分け、3试合目に惜败。6连戦という热戦となった。 |