1997/09/01
『塾』1997年 No.207 掲載
庆应义塾が叁田に塾舎を构えたのは1871(明治4)年のこと。
しかし、叁田に移るまでの间にも几度か塾舎を移転している。「前期鉄砲洲」「前期新銭座」「后期鉄砲洲」「后期新銭座」の4期に分かれるこの间は、まさに义塾の草创期であり、塾舎移転のたびに近代私塾の先駆として、その充実度を増していった。
ここでは、塾舎の移り変わりに见る义塾発祥の歴史に迫ってみたい。
前期鉄砲州(1858年~)
义塾発祥の地は、江戸筑地鉄砲洲の中津藩奥平家中屋敷(现在の东京都中央区明石町、圣路加国际病院あたり)であり、最初は兰学塾としてスタート。奇しくも开塾に先立つこと87年前、わが国兰学の祖、杉田玄白?前野良沢が、この地で『解体新书(ターヘルアナトミア)』を解読している。
前期新銭座(1861年~)
芝新銭座へ移転。最初の渡米以来、恳意にしていた木村摂津守の世话により、芝新銭座(现在の东京都港区浜松町)の小家屋を借り受けることになったといわれる。移転の理由には、幕府出仕のためには长屋住まいでは不都合だった、上位の武士の娘を嫁にもらうのに幕臣として藩から独立した格好をとるためだったなどの説がある。正确な所在地を示す记録はない。
筑地鉄砲州
后期鉄砲州(1863年~)
奥平家中屋敷へ戻る。参勤交替制度の缓和による江戸詰め藩士の减少を机に、义塾の発展を意図して以前より広いスペースを确保。
后期新銭座(1868年~)
再び新銭座へ。幕府の政策によって、鉄砲洲一帯の海岸地が外国人居留地となったため、奥平家中屋敷を引き払わなければならなくなり、芝新銭座の有馬家中屋敷の一部(現在の東京都港区浜松町1丁目、神明小学校あたり)を買い取ることに決めた。幕末の騒然とした時代で、「八百八町只の一軒も普請する家」はなく、新塾舎も平時より安価で建築。とはいえ、福澤は私財を投げ打ち、かなりの 金額を苦労して集めたのも事実。しかし、これによって財政的にも中津藩の家塾的性格を脱し、晴れて義塾は同志の結社たる近代私学として、新たに発足することとなる。