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慶應義塾

アメリカにおける福泽諭吉の足跡

1998/01/01 『塾』1998年 No.209 掲載

福泽諭吉は、生涯に2度アメリカヘ渡った。最初は万延元(1860)年、27歳のときに军舰咸临丸に乗り、2度目は庆应3(1867)年34歳のとき、幕府の军舰受取委员の随员として渡航した。
今回は、今もなおアメリカに残っている福泽諭吉ゆかりの史跡の中から、代表的なものを绍介してみたい。

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ニューヨーク

庆应3(1867)年1月23日、諭吉は幕府の军舰「富士山(ふじやま)」の受取委员の随员として、2度目のアメリカ渡航を果たす。このときは咸临丸での最初の渡米よりも长く滞在し、アメリカ东部诸州を中心にさまざまな都市を见て回った。

ニューヨークに着いたのは3月19日の夕方。諭吉は、ニューヨーク滞在中にウェーランド経済书、クワッケンボス穷理书、歴史书、地理、法律、数学などに関する多量の书物を购入し、日本に持ち帰った。

|ブロードウェイ周辺

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メトロポリタン?ホテル跡

ニューヨークに着いた諭吉らは、ニューヨーク滞在中、プリンス?ストリートとの交差点に面するメトロポリタンホテルに宿泊した。

なお、諭吉らの宿泊に先立つこと7年前の万延元(1860)年4月28日、遣米使节団を乗せたアライダ号がフィラデルフィアからカッスルガーデン(バッテリーパーク)前に停泊、このとき使节団一行は同ホテルに滞在している。

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アップルトン书店跡

諭吉は、この书店で茶箱大の箱、约12箱分といわれる书籍を购入した。「ニューヨルクより书林来り终日多用。础辫辫濒别迟辞苍&补尘辫;颁辞.」(庆応3年4月5日/庆应叁年日记より)。「ウェーランド経済书讲読」のエピソードで知られる「ウェーランド経済书」もこのとき购入している。アップルトン书店は、新社屋に移った直后の1867年2月に火灾で消失した。

|ウォールストリート周辺

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运上所(ニューヨーク税関)

1899年に「First National City Bank」によって買い取られ、現在は同銀行の建物となっている。ニューヨークの税関は、1863年にフェデラル?ホール(現在は連邦政府の創立時代を記念する博物館)からこの建物に移った。その後、1907年に「カスタム?ハウス」へ移転。

ニューブラウンズウイック

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小幡甚叁郎墓所(ウィロウ?グローブ共同墓地)

大分県中津出身。元治元(1864)年に、兄篤次郎と共に入塾。明治4(1871)年、旧藩主奥平昌迈に随従してアメリカヘ留学したが、明治6(1873)年1月29日、病のため同地にて死去。諭吉の信頼が厚く、諭吉はその最晩年まで彼のことを忘れることはなかったという。

フィラデルフィア

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马场辰猪墓所(ウッドランド共同墓地)

高知県出身。自由民権运动の士。庆应3(1867)年入塾。明治19(1886)年に渡米、明21(1888)年11月1日ペンシルベニア大学病院にて死去。

サンフランシスコ

万延元(1860)年1月、諭吉は日米修好通商条约批准交换に行く新见豊前守の乗った米舰ポーハタン号の护卫役である军舰咸临丸で最初の渡米を果たす。1月19日浦贺を発った咸临丸は37日かかって、サンフランシスコ港に到着。约1ヶ月の滞在の后、闰3月19日に同港を出発、ハワイ経由で5月に帰国した。

この旅で諭吉は中浜万次郎とともにウェブスター辞书を买って帰る。日本人による同辞书输入の始まりといわれる。

|ゴールデンゲート周辺

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咸临丸入港记念碑

万延元(1860)年に批准された日米修好通商100年目を记念して、昭和35(1960)年サンフランシスコ市の姉妹都市である大阪市が「リンカーン?パーク」の中に建てた记念碑。

|モンゴメリー街

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ショウ写真馆跡

3月29日~闰3月2日にかけてインターナショナルホテルに滞在していた间に利用。同馆の娘ドーラと撮った写真は有名。

|コルマ

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咸临丸叁水夫の墓(日本人共同墓地)

咸临丸の水夫、源之助?富蔵?峰吉の墓。加州日本人慈恵会によってサンフランシスコ市街のローレル?ヒルから现在地に移された。

|ヴァレーホ街埠头

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ヴァレーホ街埠头跡

万延元(1860)年、咸临丸が投锚。当时の新闻(アルタ?カリフォルニア纸)には、咸临丸の乗组员について「これまで见たいずれの中国人より知的な风貌」という记事が载った。

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