2004/07/01
『塾』2004年 No.237 -慶應義塾社中特別号- 掲載
庆应义塾のシンボルとして、赤炼瓦の図书馆旧馆とともに谁もが脳里に思い浮かべるのが「ペンマーク」だろう。2本のペンが斜めに交差した、実に简素なデザインだが、それでいて、これほど端的に义塾の姿を象徴したものはない。今回は、このペンマークの歴史および「ペンは剣よりも强し」というイギリス生まれの成句に関するエピソードを绍介する。
世界へ雄飛する庆应义塾「ペンマーク」
1世紀以上にわたって、慶應義塾のシンボルであり続けてきた「ペンマーク」。慶早戦のスタンドで力強くはためくブルー?レッド?アンド?ブルーの塾旗(三色旗)にも、このマークがあしらわれており、義塾社中はもちろん、広く一般社会からも認知されていることは周知の通り。そして 今や、世界に対する慶應義塾のシンボルとしての役割も果たしている。
1990年(平成2)年、交換留学協定校であるオーストラリア?クイーンズランド大学からの申し出をきっかけに、慶應義塾大学の新しい紋章が制定された。クイーンズランド大学キャンパス中庭を囲む回廊の石柱の一本一本には、それぞれ世界の著名大学の紋章が刻まれている。同大学の申し出とは、その一本に慶應義塾大学の紋章を加えたいというものであった。このような経緯により考案された新紋章のデザインは、ペンマークと塾旗の色調を基調として、英文大学名、義塾の創始年とペンマークの由来となった「ペンは剣よりも強し」という成句のラテン語表記“Calamvs Gladio Fortior”から構成されている。
なお现在、大学纹章、ペンマーク、塾旗は、それぞれ特许庁に商标登録されており、庆应义塾および庆应义塾大学のサービスマークとして法的に保护されている。
洋服を着たかった塾生の発案が义塾全体のシンボルになる
このように広く亲しまれているペンマークだが、その制定の由来についてはさまざまな説がある。
明治20年代の大学设立记念章や卒业証书などを见ると、羽ペンと剣がリボンで结ばれた、现行のものとはずいぶん异なる図柄が使用されている。限られた资料よりわかっているのは、ペンマークは庆应义塾として公式に制定したものではなく、塾生有志のアイディアから生まれ、それが歳月を経て、公认されるようになったものらしいということだ。そして、その诞生のきっかけは「和服」から「洋服」への転换にあった……当时の塾生であった藤田一松君、高田源次郎君の懐旧谈によれば、その経纬はおおむね次の通りである。
1885(明治18)年頃、何人かの塾生が、自主的にそろいの洋服と学帽をあつらえた。ところが洋服姿で街中を闊歩してみると、帽子に記章がないのは、いかにも物足りない感じがする。そこでちょうど講義で使用していたクワッケンボス著『コムポジション?アンド?レトリック』という教科書に載っていた「ペンには剣に勝る力あり」(The pen is mightier than the sword)という成句にヒントを得て、藤田氏が2本のペンを交差した記章を発案。仲間たちの賛同を得て、ペンマークの帽章が作られたという。
しかし、これには異説もある。同じ明治18年頃、福澤先生の意向を受けた塾生が考案したというのだ。その塾生とは、後年、日系移民のパイオニアとして、アメリカ?サンフランシスコで活躍した塚本松之助君。同君の姪のご子息で、塾員でもある塚本和也君が、1958(昭和33)年に産経新聞紙上で、松之助君が語ったペンマーク誕生のいきさつを紹介している。その記事によると、福澤先生から「塾にはこれと定まった紋章がないが、塚本ひとつ考えて見ないか」と言われ、「ペンと錨を組合せたものと、ペンを斜め十字に交差させた二つの図案」を考案。「しかし、錨との組合せはどうも不釣合だし汽船会社の標章とまぎらわしいということで、十字ペンに決め」て、福澤先生の判断を仰いだところ、「大変よい図案だ」とすぐに決定されたということである。ちなみに、没とした案において錨をペンに絡めて使用したのは 、「海外発展を説く福澤先生の意志を尊重」したものだったという。
21世纪も守り続けていきたい「ペンは剣よりも强し」の理念
どちらが真説であるか今となっては判断のしようもないが、図案自体が塾生の発案によるものであることは确かなようだ。あるいは同时期に、偶然、藤田君と塚田君が同じような図柄を考案したという可能性も考えられる。义塾にわずかに遅れて、1871(明治4)年创立された共立学校(现在の开成中学校?高等学校)の校章も「ペンは剣よりも强し」を図案化したものであることから、この成句は、明治初年の学生たちの间で広く好まれていたのかもしれない。
いずれにせよ1885(明治18)年12月21日付の『时事新报』には「庆应义塾の生徒は従来大抵和服を着用し居たりしたが、今度生徒中の过半が申合せて一斉の洋服に改め、其帽子には前面に洋笔を交叉したる徽号を附することとなし」と报じられている。そして1900(明治33)年には、特に大学部の塾生に対し、「记章附帽子」着用が告示され、ペンマークが正式な义塾の记章として採用されるようになったのである。
ところで「ペンは剣よりも强し」のそもそもの原典は、19世纪のイギリス人、ブルワー?リットンによる戯曲『リシュリュー』といわれている。このリットンという人物は、1932(昭和7)年、国际连盟によって日华纷争の调査を命ぜられたリットン调査団団长リットン卿の祖父。日本でも亲しまれていた「ペンは……」という成句の生みの亲の子孙が、剣の力がペンの力を圧倒しようとしていた当时のわが国に対し、警鐘を鸣らしていたという事実は、何か深い因縁を感じさせる出来事ではないだろうか。国际情势が混迷の度を深める21世纪の今日、庆应义塾がペンマークを掲げる意味を、社中一同、あらためてかみしめていきたいものである。
&濒迟;福泽先生とジャーナリズム&驳迟;
小泉信叁元塾长による、言论に関わる者の责任を明らかにした名着『ペンは剣よりも强し』。同书には「余辈一本の笔を以て几万の兵を未然に防ぐ可能き筈なりき」「私の持论に执笔は勇を鼓して自由自在に书くべし」といった福泽先生の言叶が绍介されている。福泽先生が创刊した『时事新报』(1882)は、不偏不党を编集の主眼におき、日本のジャーナリズムにおける嚆矢となった。