1862(文久2)年、幕府遣欧使节団の随员としてヨーロッパ歴访の际にロンドンで撮影(福泽研究センター提供)
2025/11/26
幕末期、福泽諭吉は幕府使节団の一员として渡英し、折しも开催中だったロンドン万博を体験している。帰国后、福泽は『西洋事情』で自ら见闻した「万博体験」とその开かれた文化交流の精神を绍介した。福泽が万博に见たその精神が、どのように现代に受け継がれ、未来へとつながっているのか?世界中から多くの来场者を集めた「大阪?関西万博」が闭幕した今、あらためて光を当てる。
万博の盛況ぶりと意義を 日本人に伝えた福澤諭吉
多くの国々が参加する万国博覧会(万博)の歴史は、1851年にロンドンのハイドパークで开催された博覧会に始まる。英国は1862年にも万博を开催し、その会期中に徳川幕府の遣欧使节団が渡英。使节団の人々はロンドン万博を访れ、これが日本人と万博の“出会い”となった。
使节団に通訳として参加していた福泽諭吉は、万博会场で大英帝国の圧倒的な国力と文明を目の当たりにして深い感铭と衝撃を覚えた。帰国后に书かれた『西洋事情』初编ではその盛况ぶりを记すとともに、万博は単なる见世物ではなく新技术や新製品を世界に向けて発信する场であり、文化交流や技术革新を促进する重要な催しであるとその意义を解説した。さらに「博覧会は元と相教え相学ぶの趣意にて、互に他の所长(长所)を取て己の利となす」と记し、万博は「智力工夫の交易」であり、世界の人々が国境を越えて学び合うことの重要性を强调している。
時代とともに変化する 日本と万博の関わり方
『西洋事情』出版の翌年、1867年のパリ万博で日本は初の出展を果たした(徳川幕府のほか、萨摩藩と佐贺藩も独自に出展)。会场では日本の陶磁器や漆、和纸といった工芸品や浮世絵などの美术品がヨーロッパの人々の目を夺い、これが「ジャポニスム」の流行など日本文化が世界に広がる大きな契机となったと言われている。
日本で万博が开催されたのは二つの世界大戦をはさんでそれから100年以上后のこと。1970年、アジア初の万博が「人类の进歩と调和」をテーマに、奇しくも若き福泽が兰学などを学んだ绪方洪庵の「适塾」があった大阪で开催された。当时の最先端技术と文化が集结したこの万博は戦后日本の復兴と発展、まさに高度経済成长期の人々が见た梦を象徴するイベントとなった。
21世纪に入り、2005年には爱知で「自然の叡智」をテーマに「爱?地球博」が开催され、さらに20年を経て万博は再び大阪に巡ってきた。今、私たちは万博开催にどのような意义を见いだせるのだろうか?
現代に受け継がれる 「智力工夫の交易」
今回の「大阪?関西万博」が掲げたテーマは、「いのち輝く未来社会のデザイン(Designing Future Societyfor Our Lives)」。これは「Saving Lives(いのちを救う)」「Empowering Lives( いのちに力を与える)」「Connecting Lives(いのちをつなぐ)」というサブテーマに象徴されるように、SDGs達成への貢献や未来社会の課題解決に向けたアイデアや技術の提示を目的としていた。そのため「未来社会の実験場」というコンセプトのもと、先端技術など世界の英知を集め、地球規模のさまざまな課題に取り組むために新たなアイデアを創造?発信する場とすることを目指した。
福泽は『西洋事情』の中で技术は日进月歩だと述べ、新しい知见を学び続けることの必要性を説いた。现代の万博もまた、最新のイノベーションを世界に提示し、人类全体の进歩に贡献しようと开催されたのである。その际に世界中から集まってきた来场者が単に展示を见るだけでなく、それぞれがアイデアを交换し、未来社会を「共创」する机会の创出が积极的に図られたことが今回の万博の大きな特色だろう。
时代とともに万博の在り方は変わっていく。しかしその根底には福泽がその重要性を指摘した「智力工夫の交易」が确かに受け継がれ、より进化した「共创」へと结実した。今回の万博において、世界中の人々が知恵を寄せ合う姿から多くの万博来场者がそのことを感じ取ったに违いない。
福泽の时代から続く万博を舞台にした知の交流は、私たちに新しい未来を创造する力を与え続けている。163年前に「ロンドン万博」で大きな感铭を受けた福泽が、「大阪?関西万博」にさまざまな形で参加?贡献した庆应义塾の研究者、塾员?塾生たちを知ったなら、いったいどのような感懐を覚え、何と言っただろうか? そんな厂贵的な想像をしてみるのも楽しい。
この記事は、『塾』 AUTUMN 2025(NO.328)の「ステンドグラス」に掲載したものです。