竣工时の日吉キャンパス(福泽研究センター提供)
2025/08/07
前回(春号)の叁田?信浓町両キャンパスに続き、今号では日吉キャンパスを取り上げる。戦争末期、日吉の校舎の一部は帝国海军に接収され、地下には连合舰队司令部などが建设された。そして败戦后、今度は日本に进驻した米军によっておよそ4年间にわたって接収される。キャンパスと戦争との関わり、そしてその痕跡である「日吉台地下壕」について绍介する。
田園都市構想に沿った 「日吉キャンパス」誕生
昭和を迎えた顷、学生数の増加により庆应义塾では叁田キャンパスが次第に手狭になり、1927(昭和2)年より新キャンパス开设を検讨し始める。すると沿线の田园都市构想の一环として学校诱致による旅客需要増を目指す东京横浜电鉄株式会社(现?东急电鉄株式会社)から“日吉台”の土地约7万2000坪を无偿提供するとの申し出があり、日吉キャンパスの开设が决まった。
1934(昭和9)年4月に大学予科の移転をもって日吉キャンパスの歴史が始まる。同年11月には福泽諭吉诞生100年を兼ね、日吉开校记念祝贺会が开催された。1939(昭和14)年には、工学部(现?理工学部)の前身である「藤原工业大学」が开校。同大学は1944(昭和19)年に庆应义塾に寄付された。
戦争に翻弄され続けた 日吉キャンパスの歩み
しかし、その顷第2次世界大戦の戦况は悪化の一途をたどり、1943(昭和18)年10月には満20歳に达した文系学生の徴兵犹予が廃止され、终戦までの间、约3500名の塾生が学徒出阵により戦地に送られた。
また当时の文部省は校舎の贷与を庆应义塾に求め、日吉キャンパスでは1944(昭和19)年3月から第一校舎や寄宿舎などを海军省に贷与することになった。日吉は地理的に霞が関(海军省?军令部)と横须贺(军港)のほぼ中间に位置し、无线通信环境も良好。しかもキャンパスの寄宿舎は鉄筋コンクリートの坚固な建物で、个室も多く司令部机能はもちろん、居住环境としても最适と考えられたのだ。
まず海军による寄宿舎の全面使用が始まり、同时期にキャンパス地下で军事施设の建设が急ピッチで进んだ。建设された施设は军令部第叁部退避壕、连合舰队司令部地下壕、航空本部等地下壕、人事局地下壕で、総延长距离は约2.6㎞に及ぶ。キャンパス外部には舰政本部地下壕も作られ、これらをまとめて「日吉台地下壕」と呼ぶ。
1945(昭和20)年4月、日吉キャンパスは空襲によって工学部校舎の約8割が焼失した。同年8月14 日に日本は連合国軍に無条件降伏を決定。米軍が最初に日吉キャンパスに足を踏み入れたのは東京湾上の戦艦ミズーリで行われた降伏文書調印の2日後の9月4日と言われている。同8日には「日吉軍事占領の命令書」が渡され、米軍による日吉キャンパス接収が始まった。
接収直后から当时の渉外室や塾员有志の叁田リエーゾンクラブによる米军への度重なる返还交渉、さらに当时の学生新闻『叁田新闻』でほぼ毎号キャンパス返还に関する特集记事が组まれた。こうした庆应义塾一丸となった返还への取り组みがようやく実を结び、1949(昭和24)年、米ソ対立による占领政策の転换を背景に、6月27日に接収解除が决定。同年10月1日の返还式では、返还のシンボルとして米军より金色木製の“大键”が当时の潮田江次塾长に手渡された。
今も残る「日吉台地下壕」は 平和への思いを巡らす拠点
戦后復兴の中で、「日吉台地下壕」の存在は长く忘れ去られていた。まずその存在に注目したのは中高生たちだった。最も古い记録では1958(昭和33)年の庆应义塾普通部生徒が労作展の展示で取り上げ、11年后の1969(昭和44)年には庆应义塾高等学校の文化祭「日吉祭」で生徒有志が研究発表を行い、その成果は后に小册子『わが足の下』にまとめられた。それによると「高校に入学して校舎の里の谷に地下壕の入り口があるのを発见した。(中略)内部の様子を详しく知るために、自分たちで地図を作りながら歩き回った」とある。生徒たちは入坑许可を得て内部を探索?测量するだけでは饱き足らず、当时を知る関係者への闻き取りも行っている。本格的な调査?研究が始まったのは80年代半ばのことだったが、当时最も有力な资料となったのは高校生の调査记録『わが足の下』だった。今世纪に入ると考古学による学术调査も始まり、戦争や平和について考える拠点として现在も研究が続けられている。
日吉キャンパスの地下に、80年前の戦争の痕跡「日吉台地下壕」が今も存在している。そのことから目を背けるのではなく、今から56年前に知的好奇心によって调査研究に取り组んだ中高生たちの営為は、まさに学びの原点と言える。塾生は、自分たちの「足の下」にも目を向けつつ、自由に学び、研究できることの意味を心に刻みながら、日々の活动に取り组んでもらいたい。
この記事は、『塾』 SUMMER 2025(No.327)の「ステンドグラス」に掲載したものです。