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慶應義塾

叁田と东京タワー

2018/11/28

三田の東門を出て左手にその優美な姿を見せてくれる東京タワー(正式名称は日本電波塔)。くしくも慶應義塾創立100年にあたる1958年に竣工し、東京の街と慶應義塾の発展を戦後復興?高度成長期から60年間にわたって見守り続けてきた。電波塔としての役割は、 東京スカイツリーにバトンタッチしたが、首都のランドマークとしての存在感は今も健在だ。

青い空と海を眺望できる叁田の「丘の上」

「海に面して前に遮るものなし、空気清く眺望佳なり」。

庆应义塾が芝新銭座から叁田の旧岛原藩中屋敷跡に移転したのは1871(明治4)年春のこと。この眺望の良い高台を気に入った福泽諭吉は、『福翁自伝』において冒头のように当时の心持ちを回想した。以后半世纪にわたり、叁田の「丘の上」は、幼稚舎から大学までの诸学校が集まる庆应义塾唯一の校地だった。

福泽の思いは「丘の上には空が青いよ」「窓を开けば海が见えるよ」とカレッジソング『丘の上』の中で歌い継がれ、昭和40年代までは、実际に叁田キャンパスから品川の海を望むことができた。

东京タワーは、丘の上からまだ海が见えていた1958(昭和33)年に、日本で一番高い建筑物として华々しく诞生した。

『叁田评论』1976年2月号には、「田町駅を降りて叁田方面の阶段を降りると、その途中で东京タワーを向こうに见ることができる」という文学部2年生の文章が掲载されている。周囲に高层ビルがない当时は、田町駅からの通学路で东京タワーの威容を仰ぎ见ることができたようだ。

现在、东京タワーは东门を出て左手、叁田通りの赤羽桥方面に眺めることができるが、东京タワー开业当时、庆应义塾の正门はその叁田通り沿いにあった。

路面电车と学生街があった叁田通りの移り変わり

1904(明治37)年に路面电车の停留所「庆応义塾前」が叁田通りに设置され、多くの塾生が通学に利用していた。そして叁田通りには沿いは书店、喫茶店、饮食店、文房具店、洋服店などが轩を连ねる学生街として発展していく。叁田周辺は戦时中の空袭の被害が比较的少なく、终戦直后も学生街を含め昔ながらの街并みを保っていた。

创立75年记念で賑わう叁田通り(1932年)写真提供:福泽研究センター

1959(昭和34)年に正门が现在の位置に移転し、1969(昭和44)年に路面电车(都电)が廃止になると、塾生の行动范囲が田町駅寄りに変わっていった。また高度経済成长以降、叁田ではそれまで个人所有の邸宅だった土地が外国公馆やマンションに置き换わっていった。叁田通り沿いもオフィス街化が进み、平成に入ってからは道路拡张工事もあって、今やかつての学生街の面影を探すことは难しい。

しかし、现在でも东京六大学野球リーグ戦の优胜パレードが叁田通りに差し掛かると、近隣の商店街の方々が选手たちを温かく出迎えてくれる。そこには叁田の街と塾生の歴史に里付けられた亲密な関係性を感じることができる。

叁田の商店街の方々に迎えられる优胜パレードカー

东京タワーと叁田祭のコラボレーション企画も

庆应义塾では、これまで东京タワーにちなんだ数々のイベントを催している。アート?センターでは、「アート?マネジメント讲座2009」展示系ワークショップの一环として、港区と共催で「东京タワーについて」と题した展覧会を叁田キャンパス东馆展示スペースで开催。

2010年の三田祭では、東京タワーと三田祭が共に52周年、第52回を記念してコラボレーション企画「東京タワー×三田祭(TOKYO TOWER × MITASAI 52nd)」を、東京タワーを会場にして実施。学生団体の公演と、東京タワーと三田祭の歴史展示などを行った。1日限りの開催ながら大盛況のうちに閉幕することができた。

今年は东京タワーから至近距离にある芝共立キャンパスに薬学部が开设されてから10周年でもある。东京タワーはこれからも东京の街と庆应义塾の歩みを、333メートルの高みから优しく见守ってくれることだろう。

芝共立キャンパス屋上庭园から见える东京タワー

この記事は、『塾』2018 SUMMER(No.299)の「ステンドグラス」に掲載したものです。