-庆応から明治へ、维新の年の福泽諭吉-
2018/08/09
徳川幕府から王政の新政府へと政権が移った1868年は、创立10年を迎えた福泽の私塾が飞跃の础を筑いた年でもある。芝新銭座への移転を机に、洋学を志す同志が结社をつくって経営する近代的な教育机関へと进化し、その名も“庆应义塾”と命名された。
1868年に现在の筑地市场の辺りに开业した西洋风ホテル「东京筑地ホテル馆」歌川広重(3代)画。外国人居留地をつくるにあたり、塾舎は筑地鉄砲洲から立退きを迫られた
パブリックスクールに倣った近代的な学校、“义塾”诞生
筑地鉄砲洲にあった塾舎を芝新銭座(现在の港区浜松町)に移し庆应义塾と命名したのは、150年前の1868(庆応4)年4月のこと。政治、経済から文化や教育にいたるまでさまざまな変化の真っ只中の时代であり、5カ月后には年号が明治に変わる。この移転と命名は、10年前に创立された福泽諭吉の小さな兰学塾が、现在の庆应义塾へと飞跃するターニングポイントだったと言えるだろう。
なぜなら命名直后に発表された『庆应义塾之记』において、庆应义塾は福泽の私塾ではなく、洋学を志す同志が自発的に结社をつくって経営する近代学校として発足したことと、士族、民间を问わず志のあるものを受け入れることが宣言されているからだ。义塾之记に「彼(か)の共立学校の制に倣い」という言叶があることから、福泽がイメージした「义塾」とは、イギリスの私立学校、パブリックスクールのことだと思われ、西洋の共立学校の制度に倣って组织?运営された。
なお义塾という呼称は、それ以前にもまれに使用例があるにはあるが、庆应义塾がきっかけで広く知られるようになり、全国各地の私立学校で好んで用いられた。
また「庆应」とつけたのは「创立の年号に取て仮に庆应义塾と名(なづ)く」とあり、その时点で「仮に」とあるように、ごくシンプルな命名だったと思われる。
しかしながら、同年9月に年号が明治に改められた后も庆应の名は変えなかった。このことについて、福泽が明治新政府からの度重なる招聘(しょうへい)に一贯して応じなかった态度に络めて非难する声もあったが、福泽はそんな声を一顾だにしなかった。自由に発言できる民にあってこそ、福泽の存在は意味がある。
激动の年、戦争のさなかでも讲义はいつも通りに
命名后わずか数カ月で年号が変わるほどに、幕藩体制から王政维新へと政治の大転换の年にあっても、福泽の学问への情热は、首尾一贯してびくとも揺るがなかった。移転直后の5月には、江戸城の开城を不満とする一部の旧幕臣が上野の山に立てこもり、官军が攻撃を开始。その銃声が闻こえ、市中は俄然(がぜん)騒然とするなか、福泽は毎週土曜日に开讲されていた経済书の讲义を悠然と続けた。世の中がどうあれ、学问教育を尊重する姿势を塾生に伝えたこのエピソードをもとに、义塾では5月15日を「福泽先生ウェーランド経済书讲述记念日」とし、毎年叁田演説馆で记念讲演会が行われている。
のちに福泽は『福翁自伝』で当时のことを「上野に大戦争が始まって、その前后は江戸市中の芝居も寄席も见世物も料理茶屋もみな休んでしまって、八百八町は真の闇、何が何やらわからないほどの混乱」と语っているのだが、そんなことより、讲义のほうが大切だったのだ。
西郷隆盛の「抵抗の精神」を高く评価していた
ところで、明治维新の立役者といわれる西郷隆盛と福泽諭吉は、面识はなかったものの、お互いを高く评価していたことを知っているだろうか。
「西郷の死は怜れむべし。之を死地に陥れたるものは政府なり」
福泽が1877(明治10)年、西南戦争直后に书いた『丁丑(ていちゅう)公论』の一文である。福泽は、西郷の人格?思想を、士族の気风や「文明の精神」を持つものとして高く评価し、西南戦争の决起を専制政治に「抵抗する精神」によるものと强く弁护している。そして士族を贫穷に追い込んだ明治政府にこそ、反乱勃発の责任があると指弾し、西郷を死なせたのは明治政府であるとまで言っている。
教育者、军人の违いはあれど、西郷の生き方に感じるものがあったのだろう。ただし、时事新报の记者が埋もれていた同文书を福泽宅で発见し、公表したのは1901(明治34)年の福泽病没の直前である。书いたものの、これを西南戦争直后に発表するには、影响が大きすぎると判断したのだろうか。
一方、西郷は、福泽の着作を爱読していたことが知られており、郷里鹿児岛の书生に庆应义塾への入学を促したり、弟子に『文明论之概略』を読むように勧めたりしていた。福泽の思想に共感するものがあったのだと思われる。
教育者?思想家の福泽諭吉、政治家?军人の西郷隆盛。立场は违えど、动乱の幕末から明治を、自らの信念を譲ることなく贯き通した2人には、相通じる强い意志を感じる。
写真提供:福泽研究センター、庆应义塾図书馆(3枚目を除く)
この記事は、『塾』2018 SPRING(No.298)の「ステンドグラス」に掲載したものです。