春雨直播app

慶應義塾

初代医学部長 北里柴三郎

2020/06/22

1984年以来、一万円札の「颜」であった福泽諭吉だが、2024年の纸币刷新で“引退”することになった。一方で千円札の新しい「颜」となる北里柴叁郎は「近代日本医学の父」であり、第1回ノーベル生理学?医学赏の候补にも选ばれた。福泽との深い亲交でも知られており、庆应义塾大学医学部初代学部长を务めた人物である。

武芸に打ち込んだ少年が医学の道へ

1853(嘉永6)年、北里柴叁郎は肥后国(熊本県)阿苏郡小国郷北里村に生まれた。幼少期の北里は武芸を好んで学问は二の次だったが、両亲は学问を强いた。それでも武芸への思いは覚めやらず、いつかは军人になりたいと考えていた。

1871年に父亲の勧めで熊本の古城医学所(后に熊本医学校と改称。现在の熊本大学医学部)で学ぶことになったものの、军人志望に変わりはなかった。転机は医学所のオランダ人教师であるマンスフェルトとの出会いだった。オランダ语がよくできる北里に目をかけ、彼に医学の面白さを説いた。ある日の実习で北里は初めて顕微镜で拡大された身体组织を见て感激。ようやく医学を学ぶ意义を见出すことができた。マンスフェルトは北里に东京やヨーロッパで医学を修めることを勧め、1874年、北里は故郷を后に东京に向かった。

熊本医学校の职员および学生。中央がマンスフェルト、向かって左が北里(提供:学校法人北里研究所)

ドイツでコッホに师事し「血清疗法」を确立

东京医学校(现在の东京大学医学部)に进学した北里は同校の「バンカラ」な気风の中、勉学に集中しながらも豪放な学生生活を送っていた。バンカラが过ぎる学生たちの扱いに困り果てた长与専斎校长は、幕末期に绪方洪庵の适塾で机を并べた亲友に相谈し、学生を监督する「寮监」2名を派遣してもらった。実は长与校长の亲友というのは福泽諭吉だが、この时はまだ二人は出会っていない。

1883年に东京医学校卒业后、内务省卫生局に职を得た北里は、2年后の1885年、ドイツへの官费留学を命じられる。ドイツでは细菌学の泰斗ローベルト?コッホに师事し、世界で初めて破伤风菌の纯粋培养に成功。さらにその毒素に対する免疫抗体を発见し、それを使った「免疫血清疗法」を开発。世界的名声を得ることとなった。

破伤风の血清疗法を确立したドイツ留学时代の北里(提供:学校法人北里研究所)

伝染病研究所设立が縁となり福泽諭吉と生涯の亲交を结ぶ

内务省はドイツで业绩を挙げた北里の帰国を待ちわびていた。当时、急务であった感染症?结核対策のため、国立の伝染病研究所を设立する準备を进めていたからだ。北里が帰国したのは1892(明治25)年。しかし帝国议会で伝染病研究所设立が承认されるまでに最低2年を要することが判明した。北里の上司になっていた长与専斎は、またしても福泽に相谈した。すると福泽は私立の伝染病研究所设立案と援助を约束し、同年に伝染病研究所が设立された。福泽諭吉57歳、北里柴叁郎40歳。二人の亲交はこの时から始まり、北里にとって福泽は生涯の师といえる存在となった。

「…呜呼悲哉(かなしいかな)。余は衷心実に师父を丧いたるの感あり。…余不敏といえどもまたその遗业を守り、その遗训を体し、切磋研钻をもって万一の报恩を期せんとす」。福泽の死(1901年)に际して、北里が寄せた弔辞の抜粋である。

北里记念医学図书馆内の胸像

福泽の死后、庆应义塾は创立60年を期して、北里に协力を仰ぎ大学部に医学科新设を计画。1917年に开设された医学科の学科长(后の医学部长)に迎えられた北里は、创立记念パーティーで次のように聴众に语りかけた。

「予は福泽先生の门下生ではないが、先生の恩顾をこうむったことは门下生以上である」

北里は1928(昭和3)年まで医学部长を务め、その后も顾问として、生涯、庆应义塾大学医学部を支え続けた。その功绩をたたえ、1937年には北里记念医学図书馆が诞生した。図书馆の入口にある北里の胸像は、今日も信浓町キャンパスで医学を志す若者たちを见守っている。

この記事は、『塾』2020 WINTER(No.305)の「ステンドグラス」に掲載したものです。