2021/04/27
イスラーム教の圣典『コーラン』の岩波文库版の翻訳者として知られる井筒俊彦は、庆应义塾大学で学び、教员も务めた。井筒はイスラーム研究のみならず、东洋思想?神秘主义哲学研究、30以上の言语を使いこなす言语学者?语学の天才として不朽の业绩を残している。学问分野と言语を自由に往来しながら膨大な知识を操る知の巨人、井筒俊彦。その足跡をたどる。
现在も続く福泽赏?义塾赏の第1回授赏式の记念写真(1949年11月9日撮影)。井筒は『神秘哲学:ギリシアの部』で福泽赏を受赏した(前列右端)。(福泽研究センター提供)
学究としての运命を决めた师?西脇顺叁郎との出会い
欧州で第一次世界大戦が勃発した1914年、井筒俊彦は东京市四谷区(现?新宿区)に生まれた。在家の禅修行者だった父の指导で、子どもの顷から禅に関する书籍を読み、座禅をして瞑想するなど禅思想に亲しんだ。
その后、入学した青山学院中等部でキリスト教と出会い、幼少より培われた禅思想を覆すその教えに当初は激しい违和感を覚えながらもやがて関心が芽生える。诗人论を书く批评家でもあった井筒は、この顷から庆应义塾大学文学部教授だった西脇顺叁郎の作品を爱読していた。
1931年に庆应义塾大学予科に入学。当初は父に従って経済学部に进むが、文学への思いを捨てきれず文学部英文科に転じ、西脇に师事した。井筒は师との初めての出会いを「飘々と歩くその人自身の姿を、叁田山上に、はじめて见たとき、私の心は跃った」と语り、「西脇先生を生涯ただひとりの我が师と思っている」と述懐している。
卓越した语学力と知への情热で庆应义塾から世界に羽ばたく
大学卒业后の井筒は助手として西脇を支えた。卓越した语学力を认められて、西脇らの提唱で1942年に设立された语学研究所(のちに言语文化研究所)研究员、外国语学校主事に就任。イスラーム思想史やギリシア神秘哲学の研究に取り组みながら、文学部でロシア文学を、外国语学校ではギリシア语、ヘブライ语、アラビア语、ヒンドスターニー语など复数の语学を教えていた。
1954年には文学部教授に就任し、それまで西脇が担当していた「言语学概论」を受け持った。その斩新な讲义内容は人気が高く、早く行かないと席がなくなってしまうことで有名だった。当时受讲生の一人だった文芸评论家の江藤淳は「これほど毎回のように知的昂奋を覚える授业はなかった」と讲义の印象を语っている。后年、井筒は讲义内容を英文の着作『言语と呪术』としてまとめている。
1959年、井筒は45歳にして初めて海外渡航した。ロックフェラー财団の奨学金を得て、2年间にわたってレバノン、エジプト、ドイツ、フランス、カナダなどのイスラーム研究拠点を访问。この时、縁ができたカナダ?マギル大学に1961年から客员教授として招聘された。1967年からは东西の哲学、宗教、芸术、科学を包含する学际的な会合「エラノス会议」に参加するようになる。各界を代表する人物が讲演者として招聘されるこの会议で、井筒は东洋哲学や宗教に関する多くの讲演を行った。
井筒俊彦のスピリットはいまも庆应义塾に息づいている
1969年、井筒は正式にマギル大学教授となり、庆应义塾大学教授を退任。マギル大学がイスラーム学研究所テヘラン支部を开设したことに伴い、イランの首都テヘランに移住した。王立アカデミー教授を経て、1979年のイラン革命によって日本に帰国。井筒の着作はほとんど英文で书かれていたが、帰国后は日本语での着述活动に専念。1993年に自宅があった鎌仓で亡くなるまで、『イスラーム文化-その根柢にあるもの』などの着书を残した。
井筒が鎌仓の家に残した旧蔵书コレクションは、现在、庆应义塾大学叁田メディアセンターに移管されている。その数は和汉书と洋书合わせて约1万册、アラビア语の资料は约3700册を数え、その中にはイラン国外でめったに见ることができないイラン石版本90点など非常に贵重な资料も含まれている。
庆应义塾大学文学部创设125年の2015年、文学部は西脇顺叁郎と井筒俊彦の师弟の名を冠した研究奨励赏を设置した。このうち「井筒俊彦学术赏」は、広大な学问分野と言语フィールドで不朽の実绩を残した井筒の名にふさわしく哲学、伦理学、歴史学、民族学考古学、図书馆?情报学、社会学、心理学、教育学、人间科学に及ぶ幅広いフィールドの新进気鋭の研究者に授与され、井筒俊彦のスピリットを受け継ぐ21世纪の硕学の诞生を応援している。
※『井筒俊彦ざんまい』庆应义塾大学出版会(2019年10月)より
この記事は、『塾』2020 SUMMER(No.307)の「ステンドグラス」に掲載したものです。