2022/05/25
叁田キャンパスの东馆を抜け、左侧に上るスロープの先に「幻の门」と呼ばれる门柱が见える。その歴史は、庆应义塾が叁田に移転した明治时代初期にさかのぼり、当时はこちらが表门=「正门」だった。カレッジソングにも歌われ、明治~大正~昭和~平成~令和と时代を超えて、庆应义塾の歴史を见守ってきた「幻の门」の由来と変迁をたどってみたい。
现在の幻の门
时代の変迁とともに「门」も生まれ変わる
1871(明治4)年、庆应义塾は芝?新銭座から叁田の肥前岛原藩松平家の中屋敷に移転した。现在の东馆の辺りに大名屋敷の名残である木造の黒涂り门があり、それをそのまま庆应义塾の门として使うことになった。敷地西侧(现在の中等部侧)の纲町方面に通じる门を「里门(あるいは西门)」と称したのに対して、こちらは「表门(あるいは正门)」と呼ばれた。
1901(明治34)年2月の福泽諭吉葬仪の际は、叁田山上の福泽宅から出発した葬列は表门を抜けて、叁田通りを赤羽桥、一の桥と経て、葬祭场の善福寺に向かった。まさに庆应义塾の表玄関であったのだ。
1913(大正2)年夏、老朽化が进んだ木造の门は倒壊の恐れも出てきたため、花岗岩製の门柱と鉄扉を持つ洋风の门に生まれ変わった。形式にとらわれない义塾の気风からか、门标さえ掲げられない极めてシンプルな门だった。
第2次世界大戦中の1943(昭和18)年11月、叁田で塾生出阵(学徒出阵)の壮行会が挙行された。大讲堂前を出発した出阵学徒は他の塾生たちに见送られ、表门から旅立ち、福泽の墓参に向かった。戦时中には、陆军のトラックが门柱を破损した事件もあった。当时用度课长であった羽磯武平が、小泉信叁塾长にそのことを报告すると「军と虽(いえども)远虑することは无用である。然るべく要求し请求すべきである」との指示を受けたそうである。
1945(昭和20)年5月の空袭で表门も被灾したが、その2年后に横须贺叁田会の寄付などによって修復された。戦后间もなく右侧の门柱に「庆应义塾」と墨书きされた门标が掲げられた。しかし何者かに持ち去られてしまい、今はその门标は庆应义塾には存在しない。
1959(昭和34)年、庆应义塾创立100年事业の一环で、南校舎が建设され、同时に现在の正门が新设された。表门は正式名称が「东门」に変わったが、その后も塾生の间では「幻の门」の异称で亲しまれた。
异称「幻の门」の由来はカレッジソング「幻の门」?
「幻の门」という异称は表门に门标が掲げられていなかったことが由来であるという説があるが、やはりカレッジソング「幻の门」をその由来とする説が有力である。
1933(昭和8)年の春、ワグネルソサイエティーと応援部(现在の应援指导部)との企画により、カレッジソング「幻の门」が作られた。『応援指导部75年史』によれば、同年に正式発足した応援部の団长?柳井敬叁が「スポーツの応援だけでなしに、例えば、わし等が卒业して、パリじゃロンドンじゃのに向うて、日本を発つ时に、见送りに唱って貰えるような、立派な歌を作って置かにゃならん」と考えたことが始まりといわれている。
当初、作词を依頼した北原白秋には早稲田出身であることから断られ、作曲を担当する山田耕筰の推荐で诗人?フランス文学者であった堀口大学(塾员)が作词を担当。かくして「幻の门ここすぎて叡智の丘にわれら立つ」と歌われるカレッジソングが诞生した。
堀口は后年、たとえ外见は粗末でも「青春のあこがれと理想を迎え入れる大きな门が耸え立ってゐるやうに感じられたものでした。これがまた形式にとらわれない塾の精神と相通じるやうに私には思へたものでした。即ちこれを『幻の门』と呼んであの歌に歌いあげた次第です」と述懐している。深川の不动尊に愿掛けをするなど心魂を尽くして「幻の门」の词を构想したという堀口は、お披露目の早庆戦に小さな不动像を持参して临んだ。その结果、庆应义塾は逆転剧を演じて胜利した。现在でも东京六大学野球の优胜パレードで、叁田キャンパス东门に到着した际には「幻の门」が演奏される。
世纪を超えて义塾の歴史を见守り続ける「幻の门」
2000年に完成した东馆の建设时に、幻の门は东馆アーケードを通り抜け、ブリッジをくぐって左手に続く石畳のスロープの上、福泽公园に近い位置に移设された。併せて、石畳のスロープには马留石の一部も移设されている。また、鉄扉の一部は、东馆3阶へ通じるブリッジ侧面の饰りに転用された。
2021年春、慶應義塾ミュージアム?コモンズ建設等のため長らく封鎖されていた東館に続くスロープが開放され、再び幻の門を通り抜けることができるようになった。早春、卒业生を見送るように坂道に咲く桜の木とともに、これからも幻の門は義塾の歴史を見守り続けていくことだろう。
この記事は、『塾』WINTER 2022(No.313)の「ステンドグラス」に掲載したものです。