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慶應義塾

理工学部の変迁をたどる

2022/09/26

今年2022年は理工学部が矢上キャンパスに移転してちょうど50年という节目の年。理工学部の前身である戦前の「藤原工业大学」の创设から庆应义塾大学「工学部」へ。さらに戦后の小金井キャンパスでの再出発と、日吉矢上台に“復帰”して现在の「理工学部」として改组されるまでの歩みを振り返る。

藤原工业大学予科校舎(写真提供:福泽研究センター)

工学部设立の立役者は小泉信叁と藤原银次郎

1933(昭和8)年に塾长に就任した小泉信叁は「理工系学部设立」を重要な悬案事项としていた。実は福泽諭吉の在世当时より、文学部?経済学部?法学部?医学部に続く理工系学部の设置が庆应义塾の课题となっていたが、学部设立のためには莫大な费用が必要となり、资金调达が高い壁になっていた。

同じ顷、王子製纸株式会社社长?会长を务め「製纸王」と呼ばれた塾员の藤原银次郎は、日本の発展のためには私财を投じてでも本格的な工业大学を设立することが必要だと决意を固めていた。同じ志を抱いた塾员同士が会谈の机会を持ったのは1938(昭和13)年のこと。6月に东京?银座の交询社で工业大学设立に関する初めての话し合いが行われ、その后二人は何度も协议を重ねる。その结果、小泉が学长として教育を、藤原が理事长として経営を担当することで合意し、藤原が私财800万円を投じて「藤原工业大学」を设立することが决定した。

1939(昭和14)年、日吉キャンパス内に理工学部の前身となる藤原工业大学(机械工学科、电気工学科、応用化学科、および予科)创设。小泉と藤原の协议の中で、将来の庆应义塾との合併を见据えて、制服や教员人事などは庆应义塾大学と同等または共通にするように配虑された。

戦中?戦后の苦难と「小金井」での再出発

太平洋戦争末期の1944(昭和19)年、创立前からの约束通り藤原工业大学は庆应义塾へ寄付されることが决まり、8月、正式に庆应义塾大学工学部が発足した。

しかし戦况はますます悪化。それに伴って同年2月には海军军令部第叁部が日吉キャンパスの予科第一校舎(现高等学校校舎)を使用することになり、9月には连合舰队司令部が日吉キャンパス内に移転してきた。翌1945年4月、空袭によって日吉キャンパスは施设のおよそ8割を焼失。8月に戦争が终结すると、今度はアメリカ军にキャンパスを接収され、工学部は学び舎を求めて东京?目黒の旧海军技术研究所、川崎市沟ノ口の工场内の国有地などを転々とすることになる。终戦后の混乱期、これら仮校舎での授业に出席できたのは京浜地区在住で生活が安定した者だけだった。そのため出席できない者に大学の状况等を知らせる「工学部だより」の発行や、基础科目の演习问题を邮送する通信教育も行っていた。

理工学部校舎の変転(『庆应义塾大学理工学部75年史』より)

1949(昭和24)年、こうした不便を解消すべく、现在の闯搁武蔵小金井駅の南に位置する横河电机製作所の工场跡に「小金井キャンパス」を整备して移転。戦后の新制大学制度のスタートとともに新天地での再出発となった。小金井移転の年は工学部创立10年という节目でもあり、记念式典の开催にあたっては、限られた予算の中で教职员と学生が协力し合い、机や椅子等も手作りしながら準备を进めた。运动场の整备では、当时の丹羽重光(にわしげてる)学部长が自らローラーを引くこともあったという。

以后23年间、小金井キャンパスは庆应义塾の工学部の拠点となった。この时代は日本が工业製品の输出による贸易立国として高度経済成长を遂げた时期であった。政府による科学技术振兴策も追い风になり、学部と大学院の定员増や施设?设备の拡充が进んだ。

小金井キャンパスでの研究风景(写真提供:理工学メディアセンター)
小金井キャンパス正门(写真提供:理工学メディアセンター)

日吉への復帰を果たし、工学部から「理工学部」へ

小金井キャンパスへの移転から10年を経た顷、工场施设を再利用した建物の老朽化や1年生が一般教养课程を学ぶ日吉から远いことなどから、日吉への復帰を望む声が次第に高まっていた。復帰が决定したのは1968(昭和43)年のこと。移転先の日吉矢上台は日吉キャンパスとは谷を隔てて向かい合うロケーション。戦后、アメリカ军のブルドーザーを借用して整地されていたため、新キャンパス建设にはうってつけだった。工学部が小金井に移転していた间、この地は体育会野球部や自动车部の练习场として利用され、塾生からは「嵐が丘」と呼ばれていた。

竣工后の矢上キャンパス

1972(昭和47)年、ついに矢上キャンパスが开设され、工学部は念愿の日吉復帰を果たした。9年后の1981(昭和56)年には、工学部から理工学部に改组。以降、新学科が顺次设置され、现在は11学科、理工学研究科3専攻の研究?教育体制となっている。2000年には「创造と想像の拠点」である矢上キャンパスのシンボルタワー「创想馆」も完成し、2014年には创立75年を迎えた。基本理念「创発(别尘别谤驳颈苍驳)」の下、理工学部の进化はこれからも続く。

この記事は、『塾』SUMMER 2022(No.315)の「ステンドグラス」に掲載したものです。