2023/10/30
今年3月、相鉄?东急新横浜线(羽沢横浜国大?日吉)开业により、両社の相互直通运転がスタート。それに伴い庆应义塾大学の叁田、芝共立、日吉?矢上各キャンパス间の移动に加えて湘南藤沢キャンパス(厂贵颁)への移动の利便性が大幅に向上した。新线开通により、特に便利になった日吉キャンパスと日吉駅、厂贵颁と湘南台駅の変迁を振り返ってみた。
开校当初の日吉駅と航空写真
福泽研究センター提供
震灾后の郊外开発の进展と日吉キャンパスの建设
明治后期以降、教育机関として拡充を図ってきた庆应义塾。特に大正期には塾生数が激増し、叁田キャンパスは手狭となった。そのため、大正末年より新たな校地の确保が喫紧の课题となる。
折しも関东大震灾后の东京近郊では住宅?郊外开発が着目されるようになり、鉄道会社による田园都市建设も进んでいた。1928(昭和3)年、东京横浜电鉄(现?东急电鉄)から、日吉台の土地约7万坪を庆应义塾に无偿提供するとの申し出があった。当时はすでに别の候补地が検讨されていたが、この申し出によって方针転换。あらためて日吉台に购入分?借地?无偿提供分を合わせて、约13万坪を确保することが决定された。これが日吉キャンパスの始まりである。
东急の田园都市开発の考え方は、関西で阪急グループを创设した小林一叁の沿线开発手法にならったと言われている。小林は1888(明治21)年から1892(明治25)年まで庆应义塾で学び、鉄道、不动产、百货店、文化事业、プロ野球兴业などの事业を兴した近代日本を先导する実业家であった。东急と庆应义塾の交渉でも小林は终始好意的に斡旋役を务めたと伝えられる。
日吉駅とともに歩んだ日吉キャンパスの変迁
1934(昭和9)年に开校した日吉キャンパス。しかし当初构想していた理想的な学园建设は、戦争の余波もあり顺调には进まなかった。第2次世界大戦末期にはキャンパス内に海军连合舰队司令部が置かれ、米军の空袭の标的となり、终戦时には壊灭的な被害を受けていた。
こうした苦难の歴史を见守っていたのが日吉駅だ。现在は日吉东急アベニューなどが入る立派な駅ビルだが、开业当初は小さな地上駅だった。
最初の东京五轮が开催された1964(昭和39)年に东横线が地下鉄日比谷线との相互直通运転を开始して以降、地下鉄南北线、都営叁田线、横浜高速鉄道みなとみらい线、地下鉄副都心线、西武池袋线、东武东上线などともダイレクトにつながった。1991年には駅の改良工事で半地下駅となり、2008年には横浜市営地下鉄グリーンラインの地下駅も完成した。日吉駅がどんどん进化していく间、校舎の焼失により戦后各地を転々としていた工学部(现?理工学部)は1972(昭和47)年に矢上キャンパスに移転し、「悲愿の日吉復帰」を果たしている。
20年ほど前まで日吉駅东口前の纲岛街道には歩道桥がかかっていた。1970年代末に日吉で学んだ塾员の思い出によると、信号を待つより歩道桥を渡ったほうが早いこともあり、多くの塾生がこの歩道桥を渡って通学する光景が见られたという。
2022年は、东急グループ创立100周年であるとともに、『学问のすゝめ』初编刊行150周年でもあった。东急グループとの古くからのゆかりで、庆应义塾として祝100周年の记念コラボポスターを作成、日吉駅构内などに掲出していただいた。
もう远くなんかない?厂贵颁と湘南台駅
1980年代、慶應義塾大学では新時代にふさわしい新学部設置のために郊外の広大な新キャンパス用地を求めていた。やがて大学誘致を望む神奈川県藤沢市との交渉が行われ、同市遠藤地区への新キャンパス建設が決定。1990年4月、総合政策学部と环境情报学部から成る湘南藤沢キャンパスを開設した。ShonanFujisawaCampus=SFCの誕生である。
开设当初厂贵颁の最寄り駅「湘南台」は小田急线各駅停车が停まるのみで、駅も地上にあった。1999年の相鉄いずみ野线と横浜市営地下鉄(现?ブルーライン)の乗り入れ以降は横浜駅経由での日吉、叁田両キャンパスへの移动が便利になり、2008年には日吉駅?湘南台駅间を横浜市営地下鉄グリーンラインとブルーラインを乗り継いでアクセスできるようにもなった。
そして今年3月の相鉄?东急新横浜线开通によって、日吉駅?湘南台駅间を乗り换えなしで移动可能になった。相鉄いずみ野线は湘南台駅から厂贵颁経由で闯搁相模线仓见駅までの延伸计画があり、これが実现すれば厂贵颁と他キャンパスとのアクセスがさらに向上する。
首都圏の鉄道ネットワークの进展によって、年々便利になる庆应义塾大学各キャンパスへのアクセス。今后、授业?行事?课外活动などさらなるキャンパス间相互交流の活性化が期待される。
この記事は、『塾』 SUMMER 2023(No.319)の「ステンドグラス」に掲載したものです。