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慶應義塾

各地に建立された庆应义塾「记念碑」

2023/06/28

現在のキャンパス以外にもかつて「慶應義塾」が存在していた。各地にその痕跡を今に伝える「記念碑」があることをご存じだろうか? 発祥の地である東京?築地鉄砲洲、明治初期に分校が開校した大阪、京都、徳島。今回は慶應義塾ゆかりの土地に建立された4つの記念碑について、写真とともにその来歴や特色について紹介する。

ここから全てが始まった「庆应义塾発祥の地记念碑」

1858(安政5)年、中津藩中屋敷内で藩士?福泽諭吉が兰学教授を开始した。これが庆应义塾の起源とされる。中屋敷は江戸?筑地鉄砲洲、现在の东京都中央区明石町の圣路加国际病院の建物の辺りと推定されている。

この记念碑は义塾创立100年记念事业の一つとして、1958年に圣路加国际病院敷地内に建立。1982年に区の道路整备に伴い、従来の位置から病院前の交差点ロータリーに移転された。

谷口吉郎設計による記念碑は、黒御影石の台座に花崗岩製の書籍の形をしたオブジェが置かれ、表面には『学問のすゝめ』初編初版本の活字と同じ字形で「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」と刻まれている。なお、同じ中屋敷内で藩医の前野良澤らが『解体新書』を翻訳した事績により「日本洋学発祥の地記念碑」も隣接して建立されており、2基を合わせて「日本近代文化事始の地記念碑」と称されている。

设计:谷口吉郎

最初の分校として建てられた「大阪庆应义塾跡记念碑」

设计:日建设计

明治初期、庆应义塾は地方の学生が就学しやすいようにとの配虑から西日本に3つの分校を设置した。

その第1号となったのが「大阪庆应义塾」だ。1873(明治6)年11月に「南大组第六区安堂寺桥通叁丁目第百九十二番屋敷丸家善蔵扣家」に开校し、翌年に北浜町2丁目にあった小寺篤兵卫の家に移転したと伝えられる。1875(同8)年6月に闭锁されるまでの2年ほどの期间ではあったが、大阪庆应义塾では英书科75名、訳书科11名の计86名の学生を辈出している。

記念碑は2009年に小寺篤兵衛屋敷跡(大阪市中央区北浜2丁目)に土地所有者のご厚意を得て建立された(设计:日建设计)。陶器質(白色施釉)の塔の表面には福澤の筆跡で「独立自尊」と刻まれている。

京都府庁内に设置された「京都庆应义塾跡记念碑」

大阪庆应义塾设立から遅れること约3カ月、1874(明治7)年2月に京都庆应义塾が开校した。これは福泽と深い亲交があり、京都府政を主导していた槇村正直京都府参事の要请による。およそ1年间の短い期间であったが、京都庆应义塾は旧京都守护职邸内の京都中学校に间借りして、「英书」「洋算」「訳书」を教授した。この场所には后に京都府庁が置かれた。

记念碑は1932年に京都庆应倶楽部によって建立。花岗岩製の石碑の表面には福泽の笔跡による「独立自尊」の文字と建立当时の塾长だった林毅陆(はやしきろく)の挥毫(きごう)による「明治七年 京都庆应义塾跡」が刻まれた。京都府庁の门を入って左侧、守卫所の奥まった场所にある。

设计:上野伊叁郎

大阪庆应义塾を受け継いだ「徳岛庆应义塾跡记念碑」

设计:松永佳史

徳岛庆应义塾は、徳岛の有力者たちの要望と援助により、1875(明治8)年6月に闭锁された大阪庆应义塾を引き継ぐ形で、同年7月に开校し、翌76年11月まで存続した。

徳岛庆应义塾の正确な所在地はよくわかっていない。当时の设立愿に书かれた地名から旧藩主の蜂须贺家「东御殿」があったホテル敷地内と推定され、2001年4月に徳岛庆应倶楽部が中心となり、黒御影石製のスパイラル型モニュメントとステンレス製の铭板による记念碑が建立された。铭板に彫られた「独立自尊」は福泽の笔跡だ。その后、土地所有者の変更があり、2009年に県庁内に移设されている。

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福澤近藤 両翁学塾跡

1868(庆応4)年、中津藩中屋敷の场所が幕府の方针で外国人居留地となったため、福泽は私财を投げ打ち芝新銭座(现?港区浜松町)の越前丸冈藩中屋敷の一部を买い取って、约4年间塾舎とした。庆应义塾が叁田に移転后、ここに、近藤真琴が创立した攻玉社が移転してきたため、现在、跡地には2人の学塾创立者を顕彰する记念碑が建っている。

この記事は、『塾』WINTER 2023(No.317)の「ステンドグラス」に掲載したものです。