1917年
庆应义塾大学部医学科开设
大学部医学科の本格始動 1917年、慶應義塾大学部医学科を開設し、北里柴三郎博士が初代医学部長に就任した。4月には医学科予科の授業を三田山上(現在の三田キャンパス)で開始している。並行して医学部用地の確保が進められ、6月に四谷区信濃町の陸軍用地を購入し、医学部校舎と病院の建設が開始された。後に信濃町キャンパスとして発展するが当時は広大な更地であった。
医学部开设前の広大な更地
2017年
医学部开设100年を迎える
2017年、庆应义塾大学医学部は开设100年を迎えた。100年前から様変わりした信浓町地区には、病院正面玄関や敷地内、外苑东通りに记念看板が掲げられ、この记念すべき年に、改めて「これまでの100年、これからの100年」を考えるきっかけを生み出している。
信浓町キャンパス外観
1920年
医学部开校ならびに大学病院开院式実施
病院创设当时の外科手术室 当時の手術室は、主に外科、産婦人科などの手術が行われ、眼科、耳鼻科、整形外科などは外来内に手術室を持ち、独自に手術を行っていた。戦時中は重油、石炭の不足により、冬はコンロで暖をとり手術を行っていた。戦争により、建物が消失すると、その後、手術室も共同化となり現在の中央化となった。
病院创设当时の外科手术室
2016年
最先端の手术室
現在は中央手術部と呼ばれ、大学病院の使命である高度で先進的な医療を提供している。診療科の枠組みを超えて患者さんの疾患や臓器単位で医療チームを組み、各分野の専門家が連携して治療にあたるクラスター診療によって、患者さんにとって負担が少ない低侵襲手術を実現しており、これらを支援する先端機器として、2014年には多軸血管造影装置を導入したハイブリッド手術室、2016年には医療ロボット?da Vinci Xi?が稼動。手術件数は、入院手術と外来手術を合わせ14,000件を超え、全国でトップクラスの実績を上げている。
现在の手术室
1920年
医学部开校ならびに大学病院开院式実施
开校当时の薬物学研究室 薬物学教室は1919年9月に発足、现在の薬理学教室の前身となる。当初教室員は2名のみであったが、阿部勝馬初代教授の懇切な指導と基礎医学に特別な知識をもたない学生にも学位論文が作れることが広く知れ渡ったことから入室希望者が増え、実験を廊下でやらねばならないほどであった。研究範囲は非常に広く、量質ともに日本で最も活発な教室の一つとなった。
开校当时の薬物学研究室
2017年
进化する研究室
现在の薬理学教室は教授室とカンファレンスルームが一体化し、开放的な明るい空间の中で日々活発なコミュニケーションが図られている。教员の専门领域は、薬理学にとどまらず、物理学、工学、化学、生物学など多岐にわたり、コンピューターサイエンスやイメージングシステムを积极的に导入することで、「复雑系の薬理学」という新しい领域の创成を目指している。留学生も多く受入れ、国际交流をテーマに教育面にも力を入れている。
现在の薬理学教室
1920年
医学部开校ならびに大学病院开院式実施
病院创设当时の歯科外来治疗室 当時の歯科治療室は7台の治療椅子にリッターエンジンを設置し、患者が座った形での治療が行われた。教室発足当初は岡田満教授を含む5名体制であった。
院创设当时の歯科外来治疗室
2017年
领域の広がる歯科?口腔外科外来
现在は、全身的な疾患を持つ患者の歯科治疗を行う歯科部门と肿疡や顎変形症、粘膜疾患などを担当する口腔外科部门が、密に连携をとりながら诊疗している。治疗室のレイアウトは、昔と変わらないものの、座位诊疗から、水平位诊疗への変化をはじめ、技术、対応领域は拡大の一途を辿っている。
现在の口腔外科外来治疗室
1920年
医学部开校ならびに大学病院开院式実施
1919年より产妇人科学教室初代教授川添正道が赴任し、1920年7月庆应大学病院の新筑とともに、新外来诊察室で产妇人科外来患者の诊察を开始した。当时の诊察室はベッドと机があるだけのシンプルなものであり、カーテン1枚の外侧に次の外来患者とおぼしき和服姿の女性がいる(写真后方右手)。手前右に诊察所见の口述笔记の医师がいるが、ペンとインクの吸い取り纸を用いての笔记となっている。また、今は无くなったが、看护师のかぶっている通称あんパン帽が时代を感じさせている。
病院创设当时の产妇人科外来诊察室
2017年
ライフサイクルに寄り添う产妇人科诊察室
现在は、妇人科肿疡、生殖内分泌、周产期、女性医学の诸疾患にいたるまで「女性のライフサイクル」におけるあらゆるイベントに関わるため、产妇人科诊察室も用途によって分かれている。また、それぞれの诊疗室はプライバシーに配虑しつつ先进的な技术を取り入れ、诊疗、研究にあたっている。写真は、产科超音波诊察室にて、创设当时には存在しなかった4次元(リアルタイムの3次元画像)胎児超音波诊断を行っている様子。右手に患者?家族用の画像モニターが设置され、ペンとインクは、ラップトップコンピューターに置き换わっている。
现在の产妇人科诊察室
1929年
予防医学校舎竣工
予防医学校舎竣工 予防医学分野の研究施設として、ロックフェラー財団の寄付を受けて竣工。10室あまりの研究室に加え、講堂、標本室、図書室、教授室などが設置された。病院本棟が戦災で全焼する中、戦災を免れ、一時は病院施設として活用されたが、その後研究施設として利用された。
予防医学校舎竣工
2017年
変わらぬ予防医学校舎
现在も竣工时と外観を変えることなく、研究室、医学部の授业等に利用されている。玄関両侧の车寄せのアプローチにはそれぞれに六角形の痕を见付けることができる。これは、1945年5月の东京大空袭で直撃した焼夷弾の痕である。
现在の予防医学校舎
1932年
病院别馆竣工
病院别馆 1932年竣工。合計219の病床数を持つ病室のほか、講堂、レントゲン室、研究室、臨床手術室などがあった。1945年5月の空襲で医学部?病院施設の6割が消失した中、重要な診療施設を移転していた別館は戦災を免れ、戦災後の病院機能の中心を担った。
病院别馆
2017年
3号馆(南栋)
病院别馆跡地には2012年8月1日、3号馆(南栋)が竣工。「早期発見?早期治療~包括的な先進医療の提供と予防医学の実践~」の場として、病棟の他に、がんやリウマチなど外来診療を行なう腫瘍センターや免疫統括医療センターなどを設置。また「人間ドック」のエリアを設け、21世紀の予防医学を推進する予防医療センターを新設し、「健康寿命の延伸」という課題に取り組んでいる。
3号馆(南栋)
1937年
北里记念医学図书馆竣工
北里記念医学図書館 創立当時の医学部には図書館がなく、教室?医局がそれぞれ小さな図書室や書庫をもっていたが、1937年、初代医学部長北里柴三郎博士の遺徳を顕彰するため、北里博士記念医学図書館建設会によって建設され、1944年同建設会から正式に慶應義塾に寄付された。学外医学者にも開放し、早くから夜間?日曜開館を実施した。(約30,000冊所蔵)
北里记念医学図书馆外観
2017年
庆应义塾大学信浓町メディアセンター(北里记念医学図书馆)
近代ルネサンス様式の外観を変えることなく、国内有数の医学及び関連分野の専門図書館として、充実した蔵書をもち、 幅広い分野の電子資料へのアクセスを提供。電子リソース活用講座を始めとする情報リテラシー教育にも力を注いでいる。(約413,000冊所蔵)
北里记念医学図书馆外観
1937年
北里记念医学図书馆竣工
北里记念医学図书馆1阶ロビー 北里記念医学図書館の1階ロビーに入ってすぐ正面に北里柴三郎博士の銅像が設置された。
北里记念医学図书馆1阶ロビー
2017年
北里记念医学図书馆1阶ロビー
1阶ロビーには図书馆の入口ができ、北里柴叁郎博士の铜像は少し位置を変えながら现在も设置されている。80年间変わることなく、図书馆を利用する医学部生达を见守っている。
北里记念医学図书馆1阶ロビー
1937年
北里记念医学図书馆竣工
北里记念医学図书馆内2阶には会议室が设けられた。和田顺顕设计による近世復兴式(ルネサンス)の歴史ある建物である。照明や家具调度にその特徴をみることができる。
北里记念医学図书馆内2阶 会议室
2017年
现在は第一会议室と呼ばれ、北里讲堂で行われる式典のゲストや受赏者を招く场や、打ち合わせ场所として広く活用されている。壁には歴代の医学部长の絵画、写真が展示されており、医学部の歴史の积み重ねを感じることができる。
第一会议室
1948年
木造本馆竣工
病院正面玄関(病院本馆) 153病床を持ち、戦後最大の木造建築といわれた。信濃町キャンパスは、空襲によって大半の施設を焼失したが、信濃町における医学部、病院の再興の願いは強く、医学部の総力を挙げて戦後わずか3年で成し遂げた復興事業であった。
病院正面玄関(病院本馆)
2017年
病院正面玄関(中央栋、2号馆)
病院正面玄関(中央栋、2号馆) 1963年に病院中央棟(写真手前の建物)が竣工、1986年に慶應義塾創立125年記念事業として大学病院新棟(現2号館?写真奥の建物)が竣工した。新棟は、地上11階地下2階、先進の医療情報システムを擁した周年事業を象徴する建物であった。現在も病院の中核施設として機能している。
病院正面玄関(中央栋、2号馆)
1956年
结核病栋临床
慶應義塾大学病院 結核病棟勤務中の渡辺眞幸(写真左から2人目) 1955年慶應義塾大学医学部卒、慶應義塾大学外科、国立東京第2病院を経て、現在は東京?台東区で渡辺医院を開業中。86歳の今も現役臨床医を続ける。
慶應義塾大学病院 結核病棟勤務中の渡辺眞幸(写真左から2人目)
2017年
慶應義塾大学病院 新病院棟建設現場を視察中の渡辺真純(写真左から2人目)。
1985年慶應義塾大学医学部卒、父渡辺眞幸の影響を受け慶應義塾大学外科に進む。現在は慶應義塾大学医学部教授 新病院棟開設準備室長。医学部開設100年の中核事業である新病院棟建設プロジェクトを担当。2018年3月の竣工に向けて、渡辺を中心に病院スタッフによるプロジェクトが進行している。
慶應義塾大学病院 新病院棟建設現場を視察中の渡辺真純(写真左から2人目)。
1965年
空から眺める信浓町キャンパス 大学病院1号栋竣工
空から眺める信浓町キャンパス(1965年) 1965年は正面玄関から続く大学病院1号棟が竣工。地上5階、地下1階の鉄筋コンクリート造り。中央棟を経由して2、6、7号棟へ繋がっている。正面玄関の裏手には医学部付属厚生女子学院があり、大正6年から50年以上、看護婦の養成を担った。さらにその裏手には別館病棟が佇む。敷地面積は約2万3千坪。
空から眺める信浓町キャンパス(1965年)
2015年
空から眺める信浓町キャンパス(2015年)
大学病院2号馆の道路を挟んで里手には3号馆(南栋、北栋)が建ち、连络通路でつながっている。さらに2001年に临床研究施设として総合医科学研究栋が竣工し、リサーチパークが発足。产学连携研究や临床各课と教室の枠を超えた研究がさらに促进された。
空から眺める信浓町キャンパス(2015年)
1969年
临床讲堂竣工
当时の临床実习 外科臨床講義の様子。当時の授業は、実際の症例を見ながら学ぶため、上から覗き込めるような教室の造りをとっていた。
当时の临床実习
2016年
现在の临床実习
内视镜シュミレーション実习の様子。现在、医学部5学年から6学年2学期まで、6-7名の小グループに分かれて各科をまわる临床実习が行われている。诊疗参加型临床実习が中心で直接患者さんに接することで医学?医疗的な知识を深め、责任感や指导力、协调性など、医疗に携わる者として不可欠な能力を学んでいく。最新のシュミレーターを活用した実践さながらの実习も盛んである。
现在の临床実习
1981年
四谷祭実行委员会
キャンパス環境の違いなどの理由で三田祭とは別に毎年11月に開催されるようになった信濃町キャンパスの大学祭。医学?医療を志す学生ならではの発想を生かし、社会における様々な医学関連の問題を取り上げることで社会に刺激を与える、地域に開かれたイベントとなっている。写真は1981年、四谷祭実行委员会の様子。(医学部62回生 左:吉田輝彦委員長、右:岡野栄之)
1981年、四谷祭実行委员会の様子
2017年
四谷祭
四谷祭も2017年度には第40回を迎える。歴代の四谷祭実行委員メンバーもそれぞれの道を辿り、日本を牽引する存在になっている。(左:国立研究開発法人国立がん研究センター研究所 基盤的臨床開発研究コアセンター(FIOC) 吉田輝彦センター長、右:慶應義塾大学医学部 岡野栄之医学部長)
1981年四谷祭実行委员会の様子を同じメンバーで再現した画像
1981年
医学部での生活
医学部卒業アルバムのひとコマ 医学部5年生時の臨床実習メンバーによる东校舎での実习风景を記念撮影。(医学部62回生 左:平形道人、中央:廣部誠一、右:福田恵一)
东校舎での実习风景
2017年
临床実习のメンバーとの再会
東校舎の実習室は現在も教室として活用している。活躍の場は様々であるが、卒業後も学生時代に形成された縦横の繋がりが途切れることなく深い事も慶應義塾大学医学部の特徴といえる。(左:医学教育統轄センター 平形道人教授、中央:東京都立小児総合医療センター 廣部誠一副院長、右:内科学(循環器)福田恵一教授)
1981年东校舎での実习风景画像を同じメンバーで再現した画像
1986年
新病院栋开院
病院玄関(中央栋?新栋) 1986年、慶應義塾創立125年記念事業として大学病院新棟(現2号館)開院。その竣工披露時の様子。写真手前が中央棟、写真奥に新棟が続いている。入口には福澤諭吉像が設置された。
病院玄関(中央栋?新栋)
2017年
病院玄関(中央栋?2号馆)
竣工当时から造りはそのままに、会计、再来受付机などが设置され自动化による待ち时间軽减が进む。一方で、玄関右手に患者総合相谈窓口が设置され、看护师、薬剤师、管理栄养士、医疗事务员などの専门スタッフが、日々患者さんおよびご家族などの相谈に応じている。福泽諭吉像は现在も病院を访れる患者さんの出入りを见守っている。
病院玄関(中央栋?2号馆)