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荘厳でアカデミックな
庆应义塾の原点

慶應義塾の代名詞にもなっている叁田キャンパスには、創立以来の歴史と伝統が刻まれています。特に国の重要文化財である叁田演説馆や赤レンガの図书馆旧馆は、明治の息吹を今の時代に存続させ、アカデミックな雰囲気を漂わせています。構内には「福澤諭吉終焉之地」の記念碑や佐藤春夫の詩碑など数多くの文学碑や美術作品が散在しています。慶應義塾の代表的な応援歌のひとつが「丘の上」と題されているように、キャンパスへ続く道はすべて坂道。登りきったところに学問の庭があります。
また、叁田キャンパスには、文学部の2~4年生、経済?法?商学部の3?4年生、文学?経済学?法学?社会学?商学?法务研究科の大学院生が学んでいます。女子高等学校、中等部もキャンパスに隣接しています。

※重要文化财の叁田演説馆の内部は、ご见学いただけません。

详细情报

住所

〒108-8345 东京都港区叁田2-15-45
部署别お问い合わせ先はこちら

学部?大学院

学部:文学部(2~4年)、経済学部、法学部、商学部(3?4年)
大学院:文学研究科、経済学研究科、法学研究科、社会学研究科、商学研究科、法务研究科

スポット绍介

図书馆旧馆

関東大震災、東京大空襲と2度の大きな災害をくぐり抜けながら、建築当初の華麗な姿を現在に伝えている三田の図书馆旧馆。慶應義塾創立50年記念事業の一環として建設が計画され、約3年の歳月を費やし明治45(1912)年に竣工しました。設計?監督は曾禰達蔵と中條精一郎(曾禰?中條建築事務所)。赤煉瓦と花崗岩による壮麗な外観を有するゴシック式洋風建築であり、本館(地階?地上3階)、書庫(地上6階)、東南隅にある八角塔(地上4階)を合わせて建坪200坪(660平方メートル)。蔵書数?閲覧席の規模も当時の大学図書館としては画期的なものでした。高く掲げられた時計の文字盤には、「TEMPUS FUGIT」(「時は過ぎゆく」の意のラテン語)が刻まれています。また、入口ホールの階段上を飾る「Calamvs Gladio Fortior」(「ペンは剣よりも強し」の意のラテン語)が記されたステンドグラスは、権力に屈しない慶應義塾の精神を表しています。2階にはが设置されています。

叁田演説馆

明治8(1875)年5月1日、日本最初の演説会堂として建造された演説館。創建当初は現在の図书馆旧馆と塾監局との間に位置していましたが、大正13(1924)年に現在地(叁田キャンパス南西の稲荷山)へ移築。昭和22年には修復が施されました。また、平成7(1995)年より約1年半かけて解体修復が行われています。木造瓦葺、洋風、なまこ壁の建物は、昭和42(1967)年に国の重要文化財に指定されています。現在も、三田演説会や福澤先生ウェーランド経済書講述記念日の講演会などの義塾の公式行事が開かれています。

东馆アーケード入り口

東館東西両側のアーケード入口上部のペンマークの下には、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」を意味するラテン語「HOMO NEC VLLVS CVIQVAM PRAEPOSITVS NEC SVBDITVS CREATVR」が記されています。このラテン語を直訳すると、「いかなる人もある者の上につくられてはいないし、いかなる人もある者の下につくられてはいない」となり、日本語の「天」がもつ語感を表すため、受身の形かつ否定により表現されています。

幻の门

旧島原藩邸黒門を改築して1913年に竣工した旧東門は、「幻の门ここすぎて叡智の丘にわれら立つ」にはじまるカレッジソングにちなんで「幻の门」と呼ばれ親しまれてきました。2000年に現在の场所に移築されました。また、幻の门の手前のスロープには、旧島原藩邸の時代に馬をつないだといわれる馬留石(うまどめいし)も移設されています。

ステンドグラス(东馆)

東館ホール(一般入場不可)の東西両側壁面の中央部にはめ込まれている円形のステンドグラスには、「FESTINA LENTE」の文字がデザインされ組み込まれています。これはラテン語で「ゆっくり急げ」の意味で、図书馆旧馆の正面時計盤文字の「TEMPUS FUGIT」(時は過ぎゆく)に呼応しています。

大银杏

三田の学生が待ち合わせ场所にしている大银杏。叁田キャンパスのシンボルになっています。

叁田メディアセンター

昭和57(1982)年にオープンした地上6階?地下5階の図書館「新館」。図书馆旧馆とともに、文?経?法?商学部の専門領域にかかわる人文?社会科学分野の資料を取り揃えています。書庫はほとんどが開架式で、利用者が直接膨大な蔵書に接し資料を手にとることが大きな特徴になっています。所蔵する貴重な資料は展示室での公開や、インターネットで画像発信を行うなど社会への知的貢献も進めています。

福泽諭吉胸像

最初に像が設置されたのは昭和29(1954)年の福澤先生の誕生日でした。当初は、現研究室棟の位置にあった第一研究室の庭に設置されていましたが、昭和40年代に校舎改築のために一時倉庫へ。その後、学園紛争の影響などもあり、満を持して昭和58(1983)年に図书馆旧馆前に再設置されました。
平成29(2017)年始からは図书馆旧馆の改修工事に伴い、叁田演説馆前へ移設されています。

図书馆旧馆前に設置されていた時の様子

現在の胸像と叁田演説馆

ミュージアム

庆应义塾の文化财コレクションは、庆应义塾のさまざまな场所に収蔵され、活用されています。キャンパスのミュージアムや展示スペースでは、専门性を活かしたユニークな展覧会が开催されているほか、文化财を使った授业も行われています。

その他の记念碑?建物

叁田キャンパスにある歴史的な建造物や、数多くの記念碑?芸術品などを紹介したリーフレットです。

グッズショップ

叁田インフォメーションプラザ

正門西側の叁田インフォメーションプラザでは、慶應義塾に関する各種パンフレットの配布や映像の配信、公式グッズ販売等を行います。
営业时间 平日?土曜日:10:00~18:00
     日曜日?祝日:10:00~16:00
     夏季?冬季休业期间もオープンしています。※12/30~1/3を除く
电话番号 03-5427-1436(公式グッズ関係)

 

叁田キャンパス食事情

福泽諭吉は、「食」に强い関心を持っていた人物でもありました。たとえば1893年、福泽が创刊した新闻『时事新报』において、おそらく新闻史上初となる料理记事「何にしようネ」の连载がスタート。これは女性にも新闻を通して社会への関心を高めてもらうことを意図して始められたものと考えられています。また、「颁耻谤谤测」の语を日本に初めて「コルリ」と绍介したのも福泽で、これが现在の「カレー」となりました。
叁田キャンパスには現在、西校舎の「生協食堂」と「山食」、南校舎の「ザ?カフェテリア」や卒业生?教職員向けの食堂があります。なかでも「山食」の創業は1937年。「山食」の名前が定着するのは戦後のことで、「山上の食堂」を縮めて「山食」という呼称が広まりました。また、戦後の焼け跡で、食堂後ろの斜面から吹き上げる風に揺れる様子が山小屋のようだということで「山食」と呼ばれ始めたという説もあります。創業時から変わらぬ味を守る「山食」伝統のカレーライスは、塾生、塾員、教職員それぞれの思い出の味として長く親しまれています。

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