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西暦(年号) | 月(日) | 事歴 |
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1858年 (安政5年) |
10月 |
开塾福泽諭吉、藩命により江戸筑地鉄砲洲の中津藩中屋敷内(现在の东京都中央区明石町、圣路加国际病院のあたり)に兰学塾を开く。これが庆应义塾の起源で、时に諭吉数え年25歳。いまはこの地に、创立100年を记念して「庆应义塾発祥の地记念碑」が建てられている。 |
1863年 (文久3年) |
兰学塾より英学塾に転向福澤は开塾の翌安政6年、横浜を見物してオランダ語が役立たぬことを知り、独学で英語を修めたばかりか、やがて教えるようになる。 |
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1867年 (庆应3年) |
12月 |
芝新銭座に新校地购入塾はこれより先、文久元年に鉄砲洲から芝新銭座にうつり、同3年また鉄砲洲へともどっていたのであるが、さらにこの年、芝新銭座の有马家控屋敷(现在の东京都港区浜松町1丁目、神明小学校のあたり)を手に入れ、翌4年はじめに再び移転する。现在のその地に塾跡を示す记念碑が建っている。 |
1868年 (庆应4年=明治元) |
4月 |
塾を「庆应义塾」と命名、近代私学として新発足新銭座の新校舎が完成すると、时の年号をとって塾名を「庆应义塾」と定め、同时に组织も西洋の共立学校の制度にならって、志を同じくするものが共同で社を结び、家塾から脱して近代私学として発足、その主义精神を宣言する『芝新銭座庆应义塾之记』を公にした。 |
1871年 (明治4年) |
3月 |
叁田に移転现在本拠の叁田の地はもと岛原藩の中屋敷があったところで、前年に邸地约1万2千坪を贷し下げられ、翌5年には払い下げを受けたものである。 |
1873年 (明治6年) |
4月 |
学课を整备し、正则?変则の両科新设アメリカ风の教育课程を採用して修业年限7年の正则科を设け、别に変则科は満17歳以上を入学の条件として修业年数を定めなかった。そののち、両科は本科?予备または正科?别科などと変ったが、基本的にはこの学制が大学の确立するまでつづいた。また、卒业の制度もでき、そのとき创立から同年までの在籍者数约2千名中、およそ4年间在学して当时后进の生徒を导いた158名をえらんで卒业生とし、翌7年4月からはじめて実施されるようになった。 |
1874年 (明治7年) |
幼稚舎创立 |
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1875年 (明治8年) |
5月1日 |
叁田演説馆竣工、开馆演説は福泽およびその门下の人々によって创始されたもので、この建物はわが国最初の演説会堂として大正4年に东京府史跡、昭和35年には都の重宝、同42年6月さらに国の重要文化财に指定されている。当初はいまの塾监局の北辺にあたり、现在の位置へは関东大震灾后の大正13年に移されたのである。 |
1880年 (明治13年) |
11月 |
「庆应义塾维持法案」を発表する明治10年の西南戦争前后から生徒数が激减して、义塾の経営は危机に直面した。このため、福泽は一时は义塾の廃止の止むなきを决意されたほどであったが、小幡篤次郎、浜野定四郎などの社中の人々の力で「庆应义塾维持法案」ができ、これにより社中协力してよく艰难を乗り越えることができた。 |
1881年 (明治14年) |
1月23日 |
「庆应义塾仮宪法」制定庆应4年に组织を改めて同志が共同で社を结んだときから义塾は一种の法人のかたちをなし、福泽が社头の地位にあったが、明治4年の叁田移転に际し、「庆应义塾社中之约束」を定めて运営の机构をいっそう明らかにし、福泽はこれにより引きつづき社头に推された。 |
1885年 (明治18年) |
「ペンの记章」発足このころ、塾生たちの间でペンの记章をつけはじめる |
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1889年 (明治22年) |
8月 |
「庆应义塾规约」制定明治14年の仮宪法に代え、社中に颁布して、これにもとづき评议员がえらばれることになり、10月に第1期第1回评议会が催された。その后、规定の内容には若干の改定はあったが、このとき以来それが今日に及んでいる。 |
1890年 (明治23年) |
1月 |
大学部発足、文学?理财?法律の叁科を置く修业年限3年。私立として最初の総合大学である。なお、これに伴いこれまでの课程を普通部と呼ぶようになった。 |
1892年 (明治25年) |
5月 |
体育会创设当初は剣术?柔术?野球?端艇?弓术?操练(兵式体操)?徒歩の7部で组织されていた。 |
1898年 (明治31年) |
5月 |
学制を改革し、一贯教育制度を树立。政治科増设大学部を中心として、大学科(5年)、普通学科(5年)、幼稚舎(6年)の16年の一贯教育体系を発足。同时に大学科に政治学部(政治科)を増设する。幼稚舎は明治7年1月から设けられていたものである。 |
1899年 (明治32年) |
8月 |
第1回海外留学生派遣私学として最初のことである。 |
1901年 (明治34年) |
2月3日 |
创立者福泽諭吉死去数え年68歳。法名を大観院独立自尊居士という。 |
1903年 (明治36年) |
11月 |
第1回早庆野球试合が行われた纲町运动场约4千坪を购入、11月21日ここで第1回早庆野球试合が行われ、11-9で庆应が胜利した。 |
1904年 (明治37年) |
3月 |
塾歌制定作词は角田勤一郎(浩々)、作曲は金须嘉之进。 |
1906年 (明治39年) |
4月 |
大学院设置学问研究の深さをいっそう究めようとする気运がしきりに义塾内に动いてきて、その设置となったもの。 |
西暦(年号) | 月(日) | 事歴 |
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1907年 (明治40年) |
4月21日 |
创立50年记念式典挙行记念事业として図书馆の建设が企てられ、また『庆应义塾五十年史』が刊行された。 |
1909年 (明治42年) |
4月23日 |
开校记念日制定芝新銭座から、叁田へ移転した日を太阳暦に换算して、4月23日として実施することになる。 |
1912年 (明治45=大正元) |
5月18日 |
创立50年记念図书馆开馆式挙行叁田山上の図书馆(旧馆)がそれで、曽禰达蔵?中条精一郎の设计によるゴシック式れんが造りの壮丽な构筑で、昭和44年3月には重要文化财として指定された。书库は昭和2年8月と昭和36年11月との2回にわたり増筑。 |
1913年 (大正2年) |
1月10日 |
福泽先生记念日改める命日2月3日から诞生日1月10日に改められ、翌3年から実施されるにいたった。记念日当日は休业とし、福泽先生诞生记念会が开催される。1月10日というのは、諭吉の诞生した天保5年12月12日を西暦(太阳暦)になおして、1835年1月10日としたことによる。 |
1917年 (大正6年) |
4月 |
医学科开设さきに明治6年から同13年まで塾内には医学所が开かれていたことがあり、その后もしばしば理科系学科の设置が要望されていたが、创立60年にあたって実现、まず予科の授业を叁田に开始した。 |
1918年 (大正7年) |
4月 |
医学科附属看护妇养成所の开设义塾における看护教育の开始。この后1922(大正11)年には产婆养成所も併设し、その后看护妇产婆养成所となる。 |
1920年 (大正9年) |
4月 |
大学令による大学として新発足、文学?経済学?法学?医学の四学部から成る総合大学となり、予科?大学院を付设大学令の公布によって大学は官私にかかわらず平等に取り扱われることになったので、全国の诸学校中、最初にその认可を得た。修业年限は予科3年、学部3年(医学部は4年)、大学院は年限を定めず。 |
西暦(年号) | 月(日) | 事歴 |
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1932年 (昭和7年) |
5月9日 |
创立75年记念式典挙行天皇陛下の名代として秩父宫殿下が临席、义塾出身の総理大臣犬养毅ほか参列者3千名に及び、皇室からは教育奨励のため1万円を下赐された。また、记念事业として日吉建设计画を発表、神奈川県橘树郡日吉村(现在は横浜市港北区日吉)のおよそ13万坪の新校地に理想的な学园建设がすすめられることとなり、また『庆应义塾七十五年史』も刊行された。 |
1934年 (昭和9年) |
11月2日 |
福泽諭吉诞生100年ならびに日吉开校记念祝贺会开催日吉の新校舎には予科の新入生が5月から授业を开始していたが、福泽諭吉诞生100年と兼ねて、このときに改めてそれを披露し祝ったのである。 |
1939年 (昭和14年) |
6月17日 |
日吉に藤原工业大学开校式义塾出身の藤原银次郎が私财を投じたもので、工学部の前身である。7月8日に入学式挙行。 |
1941年 (昭和16年) |
1月10日 |
新塾歌制定、発表さきに明治37年3月につくられた旧塾歌は、すでにほとんど歌われていなかった。新塾歌の作词は富田正文、作曲は信时洁。 |
1944年 (昭和19年) |
8月 |
工学部开设さきに昭和14年6月に日吉构内に开校した藤原工业大学が寄付されて、そのまま工学部として引きつがれたものである。 |
1945年 (昭和20年) |
4、5月 |
日吉キャンパス、四谷医学部、叁田キャンパス罹灾叁田地区では、施设の半分以上を焼失した。特に5月26日の东京大空袭で庆应义塾図书馆も半壊し、屋根が焼失するなど甚大な被害があったが、全焼は免れ、一部の书库は无事だった。 |
9月8日 |
日吉キャンパス施设、アメリカ军に接収 |
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1946年 (昭和21年) |
5月 |
医学部の一部、武蔵野町に一时移転戦灾による施设不足のため、东京都北多摩郡武蔵野町に一时校舎を借用して一部移り、同23年にはこれを武蔵野分校と称した。 |
西暦(年号) | 月(日) | 事歴 |
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1947年 (昭和22年) |
5月24日 |
创立90年记念式典挙行戦祸のあとの叁田山上に天皇陛下のご临席を仰いで挙行、速やかな再建を期した。10日间にわたり催しを开催。 |
11月 |
通信教育部を设け、翌23年1月から开讲文学?経済学?法学の3学部に通信教育课程を実施することとなった。 |
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1949年 (昭和24年) |
2月 |
学事振兴资金规程制定昭和17年にすでに资金が设定されて実施されていたが、戦争のため一时廃絶のかたちとなっていたのを改めたものである。 |
3月 |
工学部小金井に移転日吉が接収されてのち、工学部は目黒区叁田の目黒仮校舎や川崎市本鸭居町の沟ノ口仮校舎を転々としていたが、新たに东京都北多摩郡小金井町(现在は小金井市)に校地を求めた。 |
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4月 |
新制大学発足、文学?経済学?法学?工学の4学部开设 |
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10月1日 |
日吉返还式挙行日吉の接収が解かれ、新制の高等学校が日吉移転、翌25年4月からは大学の一部も日吉で授业をすることになった。 |
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1950年 (昭和25年) |
4月 |
医学部附属厚生女子学院の発足看护妇产婆养成所を継承し、修业年限3年の専门学校として新制高校卒业生を対象とする看护教育を开始。 |
1951年 (昭和26年) |
2月 |
义塾が学校法人となる |
4月 |
新制大学院(修士课程)开设文学?経済学?法学?社会学?工学の5研究科设置。また文学部に図书馆学科が付设された。 |
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1952年 (昭和27年) |
4月 |
新制大学医学部设置 |
1953年 (昭和28年) |
3月31日 |
秋草文壶、新国宝指定日吉台付近の白山古坟近くから昭和17年に出土した秋草文壼は昭和24年2月に国宝の指定があったが、その后、文化财保护法により重要文化财に指定がえになっていたものである。 |
1956 (昭和31年) |
5月15日 |
「福泽先生ウェーランド経済书讲述记念日」制定明治维新の际、庆应4年5月15日の彰义队の戦争当日、福泽先生がその騒乱をよそに平常どおり土曜日の日课であるウェーランド経済书の讲义をつづけていた故事をしのび、毎年この日に记念讲演または行事を催すことにしたものである。 |
1957 (昭和32年) |
4月 |
商学部増设 |
西暦(年号) | 月(日) | 事歴 |
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1958年 (昭和33年) |
4月23日 |
庆应义塾発祥の地记念碑除幕创立100年建设事业の一つとして创设の地筑地(东京都中央区明石町、圣路加国际病院のあたり)に建设した。 |
11月8日 |
创立100年记念式典挙行天皇陛下のご临席を再び仰いで、新设の日吉记念馆に盛大な记念式典を挙行。国の内外から招かれて参列するものおよそ5千名を数えた。「庆应义塾创立100年记念祝典曲」(堀口大学作词、団伊玖磨作曲)演奏。また、この1年を通じて多くの记念行事が催され、『福泽諭吉全集』(全21巻、昭和39年2月完成)『庆应义塾百年史』(付録共全6巻、昭和44年3月完成)等の记念出版も刊行の运びとなった。 |
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1959年 (昭和34年) |
5月 |
叁田南校舎?西校舎の落成。また、同时に南侧に新设の门が正门となった |
1961年 (昭和36年) |
7月 |
福泽諭吉记念基金(现在は福泽諭吉记念庆应义塾学事振兴基金)を设置 |
1962年 (昭和37年) |
4月 |
大学ビジネス?スクールの设立 |
7月 |
创立100年记念建设事业完成披露会挙行 |
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1964年 (昭和39年) |
2月 |
塾旗の规準制定塾旗がいまの叁色旗に定められたのは明治31年ごろと伝えられているが、その色合い?寸法?ペン章の形など従来はまちまちであったのを统一することになった。 |
1965年 (昭和40年) |
1月 |
财政建て直しのため塾债の発行を决定 |
1967年 (昭和42年) |
3月 |
小泉信叁记念庆应义塾学事振兴基金规程制定(4月施行) |
6月 |
叁田演説馆、重要文化财に指定される |
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1968年 (昭和43年) |
5月15日 |
庆应义塾命名100年记念式典挙行 |
1969年 (昭和44年) |
3月 |
『庆应义塾百年史』完成18年の歳月をかけて编纂された。 |
庆应义塾図书馆、重要文化财に指定される |
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11月 |
叁田、研究室の落成これで人文社会科学系の研究室が全部1ヵ所に集约されたわけである。 |
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1970年 (昭和45年) |
4月 |
研究?教育情报センター発足研究?教育用の図书?资料及びサービス业务の一元化を図る。 |
1972年 (昭和47年) |
3月 |
工学部新校舎が日吉矢上台に完成昭和45年9月に工学部の日吉矢上台復帰再建计画のため地镇祭を执行したが、见事にその校舎新筑工事が完成したのである。 |
1973年 (昭和48年) |
7月 |
立科山荘开荘长野県立科町よりの借地约6万坪に设けられた教育施设である。 |
1974年 (昭和49年) |
4月 |
伊势庆应病院开设 |
12月10日 |
図书馆のステンドグラスが復元され、除幕式を行った製作を担当したのは大竹竜蔵である。 |
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1975年 (昭和50年) |
5月1日 |
叁田演説馆开馆100年记念式挙行 |
1976年 (昭和51年) |
5月 |
「小泉信叁赏」を设ける义塾の生んだ伟大な学者?教育者?文笔家小泉信叁博士の没后10年を记念して设けられたもので、全国の高校生を対象とした小论文コンテストの最优秀者に毎年赠られる。第1回授赏式は翌52年1月10日第142回福泽先生诞生记念日に挙行された。 |
1977年 (昭和52年) |
4月 |
月が瀬リハビリテーションセンター开设 |
1978年 (昭和53年) |
4月 |
大学の学年暦の変更従来の学年暦を改めて、前期授業 4月8日~7月14日、試験 7月15日~7月21日、後期授業 9月22日~1月22日、試験 1月23日~2月5日とする。(医学部専門課程を除く) |
1981年 (昭和56年) |
4月1日 |
大学理工学部の新设工学部を発展させ、この1月16日文部省から义塾の申请を许可された。 |
1982年 (昭和57年) |
4月 |
叁田に図书馆(新馆)开馆 |
西暦(年号) | 月(日) | 事歴 |
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1983年 (昭和58年) |
5月15日 |
创立125年记念式典挙行 |
1984年 (昭和59年) |
5月12日 |
日吉开设50年记念式典挙行 |
1985年 (昭和60年) |
1月10日 |
福泽諭吉生诞150年记念式典挙行 |
1月 |
大学(日吉)新図书馆?事务栋竣工 |
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2月 |
叁田大学院校舎竣工 |
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1988年 (昭和63年) |
4月 |
看护短期大学の开设医学部附属厚生女子学院を改组し、3年制短期大学として新たな看护教育を始める。 |
1990年 (平成2年) |
4月 |
湘南藤沢キャンパスに総合政策学部?环境情报学部を开设 |
9月29日 |
「大学部」开设100年记念式典挙行 |
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10月23日 |
ニューヨーク学院(高等部)开校式典挙行 |
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1992年 (平成4年) |
4月 |
湘南藤沢中等部?高等部开校 |
1994年 (平成6年) |
4月 |
大学院政策?メディア研究科开设湘南藤沢キャンパスに、「自律?分散?协调」を掲げ、総合政策学部?环境情报学部を基础学部とする大学院政策?メディア研究科が开设された。 |
1999年 (平成11年) |
12月 |
矢上に创想馆竣工 |
2000年 (平成12年) |
4月 |
新川崎タウンキャンパス开设 |
12月 |
第2回世纪送迎会1900年に開催された世紀送迎会に続き、20世紀から21世紀に変わる歴史的節目を祝う第2回世纪送迎会が、三田キャンパスで開催された。 |
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2001年 (平成13年) |
1月 |
「世纪をつらぬく福泽諭吉」展开催福泽諭吉没后100年を记念する「世纪をつらぬく福泽諭吉」展が、东京と大阪において开催された。 |
4月 |
看护医疗学部の开设看护短期大学を改组し、看护医疗学部を开设した。信浓町における看护教育の歴史を継承しながら、湘南藤沢キャンパスを主たるキャンパスとして教育研究の新たな展开をはかる。 |
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5月 |
鹤冈タウンキャンパス开设 |
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2002年 (平成14年) |
1月 |
日吉に来往舎竣工 |
2003年 (平成15年) |
9月 |
伊势庆应病院闭院 |
2004年 (平成16年) |
4月 |
法科大学院(大学院法务研究科)の开设新たな法曹养成の开始 |
2005年 (平成17年) |
3月 |
叁田に南馆竣工 |
4月 |
大学院健康マネジメント研究科の开设湘南藤沢キャンパスに开设。看护学、医疗マネジメント、スポーツマネジメントの3専修から成る新たな分野の研究教育。 |
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2008年 (平成20年) |
4月 |
学校法人共立薬科大学との合併により薬学部?大学院薬学研究科开设芝共立キャンパス、浦和共立キャンパスが新たに加わった。 |
大学院システムデザイン?マネジメント研究科、大学院メディアデザイン研究科の开设 |
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5月 |
庆应大阪リバーサイドキャンパス开设 |
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8月 |
日吉に协生馆竣工学生と世代を超えたさまざまな人々が集い交流し、连携を実现していく场としての役割を果たす、庆应义塾における社会?地域连携の拠点のひとつ。 |
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11月 |
『庆应义塾史事典』刊行 |
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11月8日 |
创立150年记念式典挙行 |
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2009年 (平成21年) |
1月~9月 |
「未来をひらく福泽諭吉展」开催庆应义塾创立150年を记念して「未来をひらく福泽諭吉展」が、东京?福冈?大阪において开催された。 |
3月 |
日吉に第4校舎独立馆竣工 |
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2010年 (平成22年) |
4月4日 |
湘南藤沢キャンパス(厂贵颁)20周年记念式典挙行 |
7月16日 |
福泽諭吉生诞175年记念式典挙行 |
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12月 |
『福泽諭吉事典』刊行 |
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2011年 (平成23年) |
3月 |
叁田に南校舎建て替え竣工 |
9月 |
月が瀬リハビリテーションセンター闭院 |
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2012年 (平成24年) |
5月 |
庆应义塾図书馆开馆100年记念式典开催 |
2013年 (平成25年) |
4月 |
横浜初等部开校 |
5月 |
庆应大阪シティキャンパス开设(庆应大阪リバーサイドキャンパスを移転) |
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2015年 (平成27年) |
10月 |
大学部开设125年记念式典?讲演会开催 |
2016年 (平成28年) |
4月 |
殿町タウンキャンパス开设 |
2020年 (令和2年) |
3月 |
新?日吉记念馆竣工 |
2021年 (令和3年) |
4月 |
庆应义塾ミュージアム?コモンズ(碍别惭颁辞)开馆 |
2021年 (令和3年) |
7月 |
福泽諭吉记念庆应义塾史展示馆开馆 |
サイトマップの始まり
ナビゲーションの始まり