「海に面して前に遮るものなし、空気清く眺望佳なり」。
庆应义塾が芝新銭座から叁田の旧岛原藩中屋敷跡に移転したのは1871(明治4)年春のこと。この眺望の良い高台を気に入った福泽諭吉は、『福翁自伝』において冒头のように当时の心持ちを回想した。以后半世纪にわたり、叁田の「丘の上」は、幼稚舎から大学までの诸学校が集まる庆应义塾唯一の校地だった。
福泽の思いは「丘の上には空が青いよ」「窓を开けば海が见えるよ」とカレッジソング『丘の上』の中で歌い継がれ、昭和40年代までは、実际に叁田キャンパスから品川の海を望むことができた。
东京タワーは、丘の上からまだ海が见えていた1958(昭和33)年に、日本で一番高い建筑物として华々しく诞生した。
『叁田评论』1976年2月号には、「田町駅を降りて叁田方面の阶段を降りると、その途中で东京タワーを向こうに见ることができる」という文学部2年生の文章が掲载されている。周囲に高层ビルがない当时は、田町駅からの通学路で东京タワーの威容を仰ぎ见ることができたようだ。
现在、东京タワーは东门を出て左手、叁田通りの赤羽桥方面に眺めることができるが、东京タワー开业当时、庆应义塾の正门はその叁田通り沿いにあった。