-入学した当初は「外交官」になりたいと思っていたとか?
中村:それは漠然とした梦で、中学の友人から「外交官」という职业を闻いて、なんかかっこいいなと思ったことがきっかけです。当时は冷戦の时代。旧ソ连や东欧を舞台にした五木寛之さんの小説が人気で、俺も爱読していましたから「よし、ソ连の相手をする外交官になってやろう!」なんて考えていたんですよ(笑)。
-それがなぜかお芝居の道へ进むことに……。
中村:外交官に必要なのはやはり语学力ですよね。同じクラスに同じく外交官にあこがれている友人がいて、彼に诱われて英语会(碍.贰.厂.厂.)という英语サークルに入りました。そのサークルはディベート、スピーチ、ディスカッション、ドラマという4つのセクションがあり、一番面白そうだなと思ったドラマを选びました。そうしたら英语よりドラマ作りに梦中になってしまった。当初は里方のスタッフを务めていたのですが、3年生になって初めて电気工事人役でキャストに选ばれました。そのときに主役を务めた友人と日本语の芝居をやろう!と大いに盛り上がって、その势いで日本を代表する剧団である「文学座」を一绪に受けようということになったのです。そもそも受かるわけないと思ったんですよ。定员30人のところに応募者が1400人以上。大学入试の倍率のさらに倍ですよ(笑)。
ところが1次、2次とスムーズに合格してしまった。もちろんうれしかったですけど、自分でもとても不思议な気持ちがしました。それからの1年は文学座の稽古とアルバイトに明け暮れる日々。事务作业から道路工事、ビアガーデン、中华料理店の出前などあらゆることをやりました。
-在学中から本格的に俳优の道を目指されたわけですが、勉强はどうだったのでしょうか?
中村:大学の勉强はしっかりやっていましたし、成绩も悪くなかったですよ。田舎者なので根が真面目なのです(笑)。集中力もあったのでしょうね。そして卒业间际になって、オーディションを経て、テレビドラマ「われら青春!」での主役デビューが急遽决まりました。撮影が在学中の1974年1月にスタートするので、卒业试験が受けられずに中退することも覚悟してはいました。でもドラマのプロデューサーだった冈田晋吉さんが庆应义塾の先辈で、「ちゃんと试験を受けて卒业しなさい」と助言してくれて、试験期间中は撮影スケジュールを空けてくれたのです。おかげで无事卒业することができ、翌月の4月7日に「われら青春!」第1回が放送されました。