福泽が徳川幕府の万延遣米使节団の一员として咸临丸で渡米してから11年后の1871(明治4)年12月、新政府が欧米视察を目的に実施した「岩仓使节団」。その一行の中に日本初の女子留学生として最年少で加わった満6歳の津田梅子がいた。翌年1月、米国に到着した梅子は、以后11年间を米国文化の中でその教育を受けて育った。帰国后の梅子は日本での女性の立场にカルチャーショックを受けた。同时代の福泽も何度かの欧米での见闻を通して女性の地位向上や女子教育に対する问题意识を共有しており、「日本妇人论」(1885年)などの文章を残している。また、梅子の留学を后押しした父?津田仙と福泽には、1867(庆応3)年に幕府の访米使节団の外国奉行支配通弁(通訳官)を共に务めた縁があった。
再度、米国に留学した梅子は帰国后の1900(明治33)年、「女子英学塾」(现在の津田塾大学)を创立。福泽が亡くなる前年のことであった。