私たちは今まで、科学がどこまでできるかという可能性ばかり追求してきましたが、これからは可能性の限界を踏まえていかなければならないと思います。
たとえば、生命伦理という学问分野がありますが、自然科学や伦理学、哲学などさまざまな分野が协力しなければ成り立ちません。
だからそういう意味で学际的立场が重要になってくる。それは新しいことではなくて、実はルネッサンス(フランスでは16世纪)というのは、文系理系といった隔たりが无い时代でした。私が専门としているラブレーも医者であり修道士であり、そして作家であったわけです。修道士として人の心をケアし、医者として人の身体をケアする。さらにそれだけに留まらず、百科全书的な知识を求めたわけですけれども、それは人间の身体は小宇宙であるという考え方からきています。大宇宙(精神)と小宇宙(身体)のどちらの知识も大切にするべきだという発想があったわけです。近代を経て、また再びそういう発想が必要になってきたのではないかと考えています。
どういうふうに人間は立ち位置を定めるべきなのか、狭隘なものの見方ではなくて、多角的なものの見方で、寛容な精神を持つことが求められているのだと思います。 今の文学部には、やはり最先端の科学への目配せが必要ですし、今の理系には文学的な感性が不可欠であると思います。文学というのは人文学であって、ヒューマニズムの精神が生きているところ、つまり人間とは何かということを時代に問い続ける場なのです。
<取材后记>
軽妙な语り口の中に文学の本质を见出す。荻野教授のお话の中に、新しい文学部のあり方への道筋が确実にあると感じました。それは、庆应义塾が抱える学问领域の幅広さ、多様性を受け入れる懐の深さがあってこそ生まれる、新しい学问のかたちなのかもしれません。取材中、荻野教授はときに鋭く、ときに茶目っ気たっぷりに语り、话题はフランス文学や诗、落语から最先端の科学にまでおよびました。「庆应らしさとは“自由”そのもの」と言う荻野教授のおだやかな眼差しからは、常に知的好奇心を持ち、学ぶことを楽しむ大切さ、そしてその自由さや奥深さを学生たちに知ってほしいという思いが伝わってきました。