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叁田映画研究会翱叠
2017/11/27
今年(2017年)の5月20日(土)、パシフィコ横浜で开催された卒业51年以上の塾员(卒业生)を対象とした招待会にて上映され、来场者から「懐かしい」、「昔の叁田はこうだった」といった声が多く寄せられました。
映画の脚本と演出を手掛けた牛岛奎辅君をはじめとする4名のメンバーに、この作品を製作するに至った思いや、製作秘话などを闻きました。
- 当時、映画はどのような存在だったのでしょうか。
牛岛奎辅君:昭和30年代といえば、日本映画の黄金时代です。松竹、东宝、大映、日活など多数の映画会社があり、石原裕次郎や吉永小百合といった大スターが続々と生まれました。年间约600本もの映画が製作されたそうです。
そのような中で、私たちの映画研究会(映研)も映画鑑赏や、映画会社に頼まれて映画馆で観客调査をしていたのですが、同期全员が叁田キャンパスにそろった3年次に、自分たちで映画を製作しようという话になったのです。
- それはなぜでしょうか?
牛岛君:庆应义塾は、日本で一番戦争の被害を受けた大学と言われています。空袭で日吉キャンパスは木造校舎の约8割が焼け、现在の日吉駅正面の并木道の左侧一帯が石ころだらけの広场になっていて、そこに残された进驻军のカマボコ兵舎のいくつかが校舎として使われていました。叁田キャンパスはほとんどが焼失し、我々が入学したときは戦后10年が経っていたにもかかわらず、叁田キャンパスの大讲堂は依然、鉄骨と崩れた赤レンガを残すのみでした。
入学式や卒业式、塾长就任式など各种式典は、叁田山上で开催されていました。叁田山上というと响きはよいですが、言うなれば、吹きさらしの野外なわけです。そんな戦后の様子や叁田キャンパスの风景、学生の姿を记録しておこうと作ったのがこの映画です。
- 当時は学生が落ち着ける場所も限られていたとか。
牛岛君:食堂は、昼休みになると大混雑していました。座る场所がなく、立ち食いは当たり前。クラブ(サークル)の部室もひどかったですね。约80のクラブに対してわずか6つしか部室がなく、映研に至っては、全11のクラブと部室を共有していました。常に押し合いへし合いでしたね。
一方、校舎を出たら美しい景色が広がっていました。今はキャンパスの周りをビルが取り囲んでいますが、当时は、庆应义塾大学のカレッジソング「丘の上」そのもの。豊かな自然に囲まれ、向こうの方には东京湾が见える。「窓を开けば 海が见えるよ」という歌词のとおり、今よりもずっと海が近いところにありました。
- 映画はカラーフィルムで撮影されているのでその様子がよくわかります。
西村晓君:当时の撮影フィルムはモノクロが主流で、カラーフィルムは一般的ではなく、ハワイのイーストマン?コダック社から取り寄せました。戦后の混乱で日本の公司富士フイルムはまだ机能していませんでしたし、カラーフィルムを现像できる场所がなかったのです。
映画『叁田』の长さは约15分です。1本5分の长さの8ミリカラーフィルムを、予备を含めて计4本购入し、撮影したフィルムはハワイに送って现像してもらいました。撮影フィルムは船便で送り、先方が送料を负担する形で復路は航空便で现像フィルムが届いたと记忆しています。
カラーフィルムで、昭和30年顷の学生风俗を描いた映像は全国的に见ても大変珍しいのではないでしょうか。特に、戦灾で廃墟となり、1957(昭和32)年に取り壊された大讲堂をカラーで见ることができるのはこの映画『叁田』だけですし、戦灾の记録としても価値があるのではと思います。
- 相当な費用がかかったのではと察します。
牛岛君:製作费用に2万5千円かかりました。当时、庆应义塾の1年间の授业料が2万2千円、大公司の大卒初任给が7~8千円の时代ですから大金ですね。そのうち5千円は、庆应义塾大学全塾自治委员会(现?全塾协议会)が寄付してくれたのですが、残り2万円は我々が约1年かけて集めました。
资金集めの方法は、主に2つです。ひとつは、名画の上映。映画会社から映画のフィルムを借りてきて、集客し、上映する。料金は1回50円で、200人くらいが収容できる映画馆で1年に2~3回上映したでしょうか。ただ、映画上映で集められる资金はほんの一部でした。残りの资金は、ダンスパーティーで集めました。
- ダンスパーティーとは?
中川清志君:当时、ビッグバンドの生演奏をバックに踊るダンスパーティーが学生の间で非常に流行っていました。そこで、当时大手町にあった、600人を収容可能なサンケイホールで大きなダンスパーティーを开催することにしたのです。
有名なフルバンド「原信夫とシャープス&フラッツ」とジャズバンド「铃木章治とリズム?エース」に演奏をお愿いに行ったら快く引き受けてくれました。また、映研の代表であった西村君と一绪に、日活にいる映研の先辈に寄付を頼みに行ったら、ダンスパーティーで日活の笔搁をしてくれと言われてね。结成したばかりの、ハワイアンバンド「日活フラワーシスターズ」が登场し、パーティーを大いに盛り上げてくれました。パーティーには映研の先辈であるフランキー堺さんも足を运んでくださいました。
- お客さんはどのくらい集まったのですか?
中川君:チケットは1枚100円か150円くらいでしたが、すべて売り切れ。会场は超満员で、踊るどころか身动きも取れない状态でした。
パーティーなど人が多く集まるイベントは、火灾などの危険が高まるとあって、消防署の许可が必要でした。当日ももちろん消防员がいました。実は、今だから言えることなのですが、消防员の目を盗み、人数をカウントするカウンターを隠し、その隙にどっと人を入れる荒业もしました(笑)。结局、1000枚のチケットを売りました。
- いざ映画を作るとなると、いろいろと苦労があったのでは?
牛岛君:映画製作に関しては素人ですから、手探りなわけです。一番大変だったのが、撮り直しや失败ができないこと。今は编集の技术が発达していますからさまざまなカットから撮影することができますが、当时は无理でした。私たちはカット割りを头から撮影する「顺撮り」の方法で撮影するほかなかったのです。やっと手に入れた贵重なカラーフィルムでしたから、必死にやりましたね。
私は脚本を担当し、どこを撮るか、どんなナレーションを入れるかを考え、セリフを记した3ページのシナリオを书きました。さらに、カットごとに登场人物の动きや场面を细かく记した「カット集(絵コンテ)」を作り、それに沿って撮影を行いました。カット数は124に及び、カット集は全30ページの大作になりました。
私と撮影担当の加藤雄叁君には共通した信条がありました。それは「映画はカットであり、カットでつなぐ」ということ。この考え方が成功したようです。例えば、1、2、3、4、5とゆっくり数えながらひとつのシーンを撮る。それが5秒なら1分で12カット、10分で120カット撮れることになります。あるシーンで移动撮影をしたり、ゆっくり撮ったりしても、なんとか15分には収まる、という计算でやっていったのです。ですから撮影に入る前にはどうしてもカット割が必要でした。
- 映画のクライマックスの場面は。
牛岛君:映画の终盘部分に、廃墟の大讲堂から徐々に离れていく「引き」のカットが出てきます。ここで、男子学生がカメラの前をスーッと横切ってしまって。実は、撮影をしていた加藤雅叁君がその学生に向かって大声で「ばか野郎っ!」と怒鸣っています。当时のフィルムは无声なので、もちろん録音されていませんが……。
ちなみに、この部分の撮影は、当时「塾僕さん」と呼ばれていた、用务员のおじさんに借りたリアカー(手押し车)に乗って撮影しました。カメラを叁脚に取り付け、それを荒縄で固定しました。カメラとカメラマンをのせて、リアカーは私ともうひとりで支えて、ゆっくりゆっくりと后ろに引いていく。なかなかの力仕事でした(笑)。
结果として、この大讲堂の廃墟の撮影がクライマックスになりましたね。ねじれて赤錆びた鉄骨、寂しげなユニコン。生々しいばかりの、义塾にとっては残された戦火の被害のシンボルになったわけだから。このシーンは、义塾にもこんな时代があったんだと、后辈诸君たちにもぜひ见ていただきたい気持ちです。
- 心残りの箇所もあったとか……。
牛岛君:そうです。校舎の入口から3人の男子学生が出てきて、「麻雀するにはあと一人足りない」と、后ろからやってきた学生をつかまえる场面にも后悔が残っていますね。3人の学生は“せわしない様子”で麻雀をしに向かいます。しかし、次のカットに切り替わると突然、みなの动きが“スロー”になっている。
ひとつのつながったシーンにもかかわらず、カットの前后で动きの速さが违う。プロの监督が撮った映画でもそういう切り返しの场面で整合性が取れないことはままあって、そういうことを避けるために记録係がいると后で闻き、ほっと胸をなでおろしましたが、心残りです。
最后に、オープニングタイトルの製作メンバーの名前が出てくるところで、ダンスパーティーの开催に尽力した中川清志君の名前を落としてしまっている。これも本当に申し訳なかったと思っています。
- 映画は三田祭で上映されました。
西村君:9月18日にクランクインして、约2か月かけて撮影?现像?音楽などの编集を行い、11月16日の昼间に上映しました。当时の「叁田叁番教室」、いまの第1校舎の一室です。5~60人が入れる教室でした。
上映するのも大変でした。フィルムには音が入らないので、ナレーションは放送研究会の力を借りてテープレコーダーに収録していたのですが、上映するにあたって、この音声テープを映像フィルムに合わせてうまい具合に流さないといけない。タイミングが难しいわけです。当时のテープレコーダーは巨大で、运ぶのも一苦労でした。
- 映像フィルムや音声テープの保管など、その後の経緯を教えてください。
松冈正树君:私はここにおられる3人より1年后辈ですが、先辈が私にオリジナルの映像フィルムや音声テープを预けて卒业されました。我々の代で私が副代表であったからでしょう。私は就职し地方に住むことになり、フィルムを预かったことも忘れていました。数年后本社勤务となり戻ってきて、ある日父亲の书棚の整理中にオリジナルの映像フィルムや音声テープを见つけました。私が持っていても扱いに困るので、近所に住む映研の先辈である松泽泉さんに相谈したところ、「庆应义塾大学に届けてはどうか」と。映像フィルムは既にやや劣化が始まりかけていたので、専门业者にお愿いして保管に优れる痴贬厂に転换してもらいました。そしてオリジナルの映像フィルムと音声テープ、痴贬厂にした映像の3点を大学にお届けしました。1988年9月のことです。约4年后、突然础叠颁テレビから电话があり、「映像タイムトラベル」という番组で昔の大学生活の様子を绍介する际に庆应义塾の映像を使用したいと言われました。番组は1992年4月2日に放送され、东京女子大学、早稲田大学の映像とともに映画「叁田」も使用されました。放送后、础叠颁テレビが映像と音声を一绪にし、その痴贬厂を送ってくれました。そのテープのコピーを松泽先辈に渡し、先辈がそれをまたコピーして同期の皆さんに配布してくれたのです。なお、この映像は大学によって补整され、画像が鲜明になっています。今年の51年以上塾员招待会でも上映されました。
- 今回、ここで映画「三田」を初めて観る方も多いと思います。その方たちにメッセージをお願いします。
牛岛君:塾员招待会でも思いましたが、50年以上の时を経て、また多くの方に见ていただく机会を顶戴し、とてもありがたく感じています。いろいろと大変な苦労をして撮ったわけですが、カラーフィルムで撮っておいたことで、今となっては贵重な映像となりました。
この映画を通して、现在も大きく発展しつつある庆应义塾にも、戦后のこんなに惨めな时代から这い上がってきた歴史があったんだということに、思いを驰せていただけたら嬉しいですね。
※所属、职名等は取材时のものです。
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