- 話題を変えて、3年生を終えてから1年間休学していますが、その理由は?
松原:2年から东洋史学を専攻しましたが、中国の古い文献を読むことはそっちのけで、探検记?冒険记を読みふけりました。黒泽明が映画にもした、シベリアの猟师生活を描いたアルセーニエフの『デルス?ウザーラ』や、スウェン?ヘディンの『中央アジア探検记』などを热心に読んでいました。
その顷の梦は、ラクダの背に揺られて、谁も単独横断したことのない砂漠を渡ることでした。いろいろと调べ、目的地をアラビア半岛南部のルブアルハリ砂漠に决めて、ためらいもなく休学しました。砂漠の横断距离は800キロ。まずは予行演习のつもりで、东京から青森の実家まで歩くことにしました。ところが本番は砂漠だから水を控えなければと思ったのが大きな间违い。数日后にはひどい脱水症状で动けなくなり徒歩帰郷は断念。それでも青森から东京への戻り道は、野宿をしながら20日间で歩き切りました。农家の纳屋に无断で泊まり、朝、犬にほえられて家の人に见つかり、「东京まで歩くの?」と呆れられるやら感心されるやら、结局、朝ご饭をごちそうになったこともあります。
そして东京に戻り、势い込んでサウジアラビア大使馆にビザをもらいに行くと、3日间の観光ビザしか出せないと言われてがっかり。结局この冒険はあきらめるしかありませんでした。休学はしているし、さてどうしようと思い、以前から兴味があった山暮らしを経験することにして、北上山地の山奥で、农家仕事を手伝いながら蚕小屋の2阶を借りて约1年生活しました。山に囲まれた日々の中で、卒业后の仕事について考えていたときに思い出したのが、中学生の顷に见たテレビドキュメンタリーの『老人と鹰』です。鹰匠の日々を追い后にカンヌ映画祭で赏をもらった作品で、见た当时の感动がよみがえり、私の仕事はこれしかないと、出演していた沓沢氏への弟子入りを决意しました。好きな山と动物に関わる仕事としては、クマを撃つマタギもありますが、鉄砲を使うより、鸟を相棒にする鹰匠が自分には向いていると思い定め、4年に復学しました。残り1年、鹰匠の知识を身につけようと、卒论には东洋史の文献から、朝鲜の鹰匠に関するものを読み、论文を书きました。
沓沢氏に弟子入りする前に、少しお金を贮めたほうがいいかと短期の就职も考えました。新闻広告で见つけた会社の试験を受け、採用されたものの、やはり沓沢氏の年齢を考えて、1年でも早く弟子入りするほうがいいと辞退しました。ところが手纸での弟子入り志愿は断られました。それでも何度も会いに行き、ようやく「亲の承诺があれば」との言叶を引き出して、郷里に帰りました。父は银行员、母は小学校の教员です。二人とも鹰匠のことは何も知りません。そこで反対する间を与えずに「とにかく鹰匠になる」と宣言して、弟子入りが决まりました。両亲は不安だったでしょうが、后には応援してくれるようになりました。
以来、法律や人间関係など、さまざまな困难が壁となって行く手を阻みましたが、まったくぶれることなく、鹰匠として生きてきました。今は、この道を自分で见つけて选んだ私自身を、ほめてやりたい気持ちです。
现在、私には弟子や后継者はいません。クマタカを使う鹰匠は、私が死んだら终わりでしょう。それでも、どんなに苦しくてもクマタカの鹰匠をやりたいと思う若者が现れたら、技术を伝えてもいいと思っています。もっとも、私以上にいばらの道を歩くことになりますから、まずそんな人は出てこないでしょうけれど。
- ところで、鷹匠になった後に海外の山に登っています。鷹の世話などはどうしたのですか?
松原:结婚してから、饵やりぐらいなら家内が手伝ってくれるようになり、狩猟シーズンオフには长期の山行が可能になりました。家内は大阪で银行に勤めていたのですが、夏休みに会津磐梯山に游びに来て道に迷っているところに出会いました。その后、远距离恋爱を経て、彼女の周囲からは大反対されながらも结婚し、息子もいます。当时は电気、ガス、水道のない山小屋住まいですから、反対されるのは当然でした。冬は薪ストーブの上で雪を溶かして水をつくるような生活でしたから。
というわけで、结婚后に山形の山岳连盟の一员として中国の崑崙山脉の未踏峰ギシリク?タークに登顶。チベットの未踏峰にも挑戦しましたが、未登顶に终わりました。その后は、単独でペルーの4000メートル级の4峰にも登りました。いろいろな动物に会える登山も大好きなのです。