塾监局の建物の存在は、塾生にはなじみが薄いかもしれない。学生生活を通じて、足を踏み入れる机会は多くないだろう。叁田キャンパスを东门から入り、図书馆の旧馆と新馆(メディアセンター)の间に位置する、レンガ造りのゴシック风の建物である。竣工は1926(大正15)年で、90年が経过した。设计は1912(明治45)年竣工の図书馆旧馆と同じく曾禰达蔵(そねたつぞう)?中条精一郎(ちゅうじょうせいいちろう)である。
塾监局は、建物の名称であるとともに、义塾の事务全般を担う组织という意味も含んだ语である。ほかではあまり闻かないその名称は、若き日の福泽諭吉が学んだ绪方洪庵の适塾にあった塾监という管理组织に由来するとも考えられている。
庆应义塾は、1871(明治4)年に芝新銭座から叁田の岛原藩中屋敷跡に移転した。塾监局という语を见ることのできる最も古いものが、同じ年につくられた『庆应义塾社中之约束』である。
『庆应义塾社中之约束』は、改订を重ねながら1897(明治30)年顷まで印刷物として颁布された诸规则集。1871年当时の资料をもとにした『庆应义塾七十五年史』所载のものによると、「塾监局の职务」の一つ、「入社(入学)の规则」の条文に「第五条社に入らんとする者あれば、塾中教授の员にて本人の身分を証し、塾监局の许可を得て入社すべし」という项があり、塾监局が当时の入学を取り仕切っていたことがわかる。また、叁田移転当初の塾监局は、入塾(入寮)や通学をはじめとする学事や図书の贷し出しなどを担当しており、义塾の事务部门の一つであった。しかし、义塾の発展とともに徐々にその担当范囲を広げ、明治30年代の职务分掌规定によると、塾务は教头、塾监、会计主任の3つの役职者を中心に运営処理されていた。役职としての塾监は、当时主に庶务や寄宿舎を取りまとめており、教育部门の教头と并んで大きな権限を持つようになっていた。やがて塾监という职名はなくなり、明治40年代には塾监局という呼称が、広く事务机构全般を统括する意味で使われるようになった。