- 陸上競技との出会いはいつ頃ですか。
山县:小学4年のときにたまたま広岛市のスポーツ大会の100尘走に参加したことが陆上竞技との出会いでした。そのとき、他の选手がスパイクで走っていたのに、私はスニーカー履き。ところがそれでも优胜してしまった。すぐに地元の陆上クラブから声がかかり、本格的に短距离を始めることになりました。翌年には日清食品カップという小学生の全国大会で8位になり、おそらくその顷から日本一になりたいと思うようになっていました。実は一时期、ハードル竞技もやってみようと思ったことがあります。クラブで试しに走ってみたら、コーチからほめられたからです。家でそのことを父に言ったらなぜか无茶苦茶怒られまして(笑)。当时は私より父の方が100尘走にこだわっていたのかもしれません。
その后、広岛の中学?高校と陆上竞技を続け、高校1年生のときに出场した大分国体で念愿の日本一になることができました。うれしかったですね。実は翌年に骨折してしまい、手术后の復帰までは大変苦労したのですが、日本一になったという喜びがあったからこそ乗り越えることができたのではないかと思っています。
- 慶應義塾大学を選ばれたのはなぜですか?
山县:大学进学が迫ってくるにつれ、「自分はどのように大学で竞技に取り组みたいのだろう」と本気で考えるようになりました。その结果、私は自由にのびのびと胜利を目指せる大学ではないとダメで、そうした自由があるのは庆应义塾だけだとわかりました。そこから一気にスイッチが入って庆应义塾一本に绞って、础翱入试に临みました。奥别产の合格発表で合格がわかったときは自分の部屋のパソコンの前で思いっきりガッツポーズをしたことを覚えています(笑)。
- 入学後は期待通りにのびのびと競技に取り組んだのですか?
山县:ええ、期待通りでした。1年生から练习メニューも自分で考えてずっと自由にやっていました。1年生では自己ベストを更新し、翌年のロンドン五轮では10秒07のタイムを出しましたが、それが大学时代のピークでした。その后、けがで腰を痛めてしまい、结局、社会人1年目まで腰痛に悩まされました。復活できたのはその翌年で、リオデジャネイロ五轮の100尘準决胜では10秒05(五轮日本人记録)という结果を出すことができたのです。
- 競技以外にも大学時代の思い出はありますか?
山县:よく思い出すのは瀬田川を含めた竞走部の同期の仲间たちと、爱知県冈崎市まで自転车旅行をしたことです。冈崎には仲间の一人の実家があったのです。途中、箱根の山越えでは雪が降ってきてほんとうにきつかったけれど、そんなバカをやったことが今では忘れられない思い出になっています。部活动以外では、村林裕先生のスポーツビジネスのゼミですね。スポーツイベントの集客について考えたり、子ども対象のスポーツ教室で実际に指导してみたり、とても贵重な経験ができました。高校生ぐらいだと言叶で技术を伝えられるけれど、小学生にしっかりと教えるのはほんとうに难しいということが実感できました。