- 南條さんは経済学部を卒業して社会人になった後、再び文学部哲学科美学美術史学専攻に入学するという経歴をお持ちです。アートとの出会いはどのようなものだったのですか?
南条:出会いは子どもの顷で、そもそものきっかけは父でしょうか。父は非鉄金属メーカーの営业マンとして世界中を飞び回っていましたが、絵を描くのが好きないわゆる"日曜画家"でもありました。小学校低学年のとき、画材道具を持った父に连れられて横浜の洋馆が并んでいる外国人墓地の辺りに行ったことがあります。途中、父が美术雑誌を买ったことや絵を描く父の姿が今でもよみがえります。わが家には父が买ってきた美术雑誌や世界の名画の画集が揃っていました。画集といっても当时はカラー印刷ではなくモノクロ。子どもだった私は色の付いていない名画を眺めて过ごし、気がついたら絵画の远近法を自然に身につけていました。小学校でも絵を描けば一番うまく、高校まで美术は常に一番良い成绩でした。ちなみに庆应义塾高等学校时代はマンドリン部に入っていたのですが、そちらは才能がなかったようで、卒业コンサートには出演せずに、そのコンサートを録音した记念の尝笔レコードのジャケットデザインを担当しました。そんな私ですから、最初からアート系の学部に进学しても不思议ではなかったのです。
- ところがまず経済学部に進学されました。
南条:当时は芸术は社会とは无縁のジャンルだと思われていました。両亲は絵に梦中だった私を心配して、しきりに「アートでは食えない」「芸术家だけにはなるなよ」と諭しました。そうなると私自身も「そっちの世界には行ってはいけないんだな」(笑)と思うようになり、アートの道に进むことをあきらめて経済学部に进学したのです。でもアートへの関心がなくなるはずもなく、大学入学后は学部を超えて美术好きや文学好きを集めて同人誌を作ったり、银座の贷し画廊での展覧会を企画?开催したり、自分なりのアート活动を展开していました。后年、その仲间の一人はドイツに渡ってアーティストになっています。その当时、私自身は海外には関心がなかったのですが、大学の友人たちがどんどん海外に出かけていくのを见て、経済学部卒业间际に思い切ってヨーロッパを旅行しました。
- それが初めての海外旅行だったのですね。
南条:はい。普通の学生の卒业旅行と违うのは、美术史学者の高阶秀尔(たかしなしゅうじ)の『ルネッサンスの光と闇』という本を片手に、フランスやイタリアなどの美术馆をめぐって歩いたことです。本に书かれているルネサンスの文化が目の前にあるという体験は强烈でした。そして自分がそれまでヨーロッパ文化とアートについて何も理解していなかったということを、痛切に思い知らされたのです。この旅は后にアートを生业とする私の一つの原点になったと思います。
- 経済学部卒業後は大手信託銀行に入行されます。
南条:しかし自分が银行员に向いていないことにすぐ気づきました。新入社员时代には毎日のように取引先の売上金を运び、银行に戻れば高校卒业后から働いている同い年の社员がソロバンや电卓を使って、テキパキと仕事をこなしていた。彼らにはまったくかなわない。「ここでオレは何をやっているのだ?」という疑问に苛(さいな)まれる日々でした。当时、银行业务にもコンピュータが导入されはじめた顷で、ゆくゆくは银行员の仕事の多くがコンピュータに置き换わるのではないかとも感じていました。そして今度こそ大学でアートを学ぼうと决意しました。
- ご両親はたった1年で退職された南條さんの決断に納得されたのですか?
南条:していなかったと思います(笑)。そこで私は亲に対して「银行が安定しているなんて幻想に过ぎない。これから时代が変わっていくのだから、もう一度だけ僕の教育に投资してほしい」と頼んだらしいのです。実は自分ではそのセリフをよく覚えていなくて、后年母から闻かされました。当时の私自身の価値観としては一流公司への就职より、自分がどのように生きていきたいかを追求することの方が大切だと思っていました。そのための蓄积を再び义塾で学ぶことで得ようと考えていたのです。哲学も好きでしたが、やはりアートを志向する美学?美术史という分野を选び、中でも今の仕事にも通じる现代美术史を中心に学びました。