-子どもの顷の大友さんは野球选手を目指していたとか?
大友:ええ、私の野球少年としての出発点はスーパースター?长嶋茂雄の引退セレモニーでした。ファンに向かって「巨人军は永久に不灭です!」と挨拶した长嶋はかっこ良かった。「自分も野球をやらなくては!」と决意し、地元のチームに入って、毎朝5キロのランニングを欠かさないスポ根少年になりました。
でも、中学生になると、次第に自分にはプロになれるほどの才能がないことに気づくわけです(笑)。また、无茶なトレーニングがたたって膝に水がたまってしまい、高校では野球を断念。父の転勤で、高校时代は盛冈で一人暮らしを始めたこともあり、勉强にも身が入らず、暇つぶしに盛冈にある映画馆街によく通い、ヨーロッパ映画などを见ていました。おかげで成绩は急降下。现役で国立大学を受験しましたが、数学と古文がまるでわからずに不合格。今でも仕事で追い詰められたりすると、全く解けない数学の试験の梦でうなされることがあります(笑)。
-一浪して庆应义塾大学法学部に入学されたのですね?
大友:中学生ぐらいからさまざまな社会问题に関心を抱くようになり、社会正义を実现する弁护士になりたかったのです。バンカラなイメージに憧れて、実は第一志望は早稲田大学でした。しかしなぜ庆应义塾に入学することになったかというと、面接试験に遅刻してしまったことがきっかけでした。面接の日に寝过ごして时间ギリギリで叁田キャンパスに着いたら、なんと试験会场は日吉だってことに気がついた(笑)。慌てふためいて日吉に向かいますが、大幅に遅刻。それでも面接してくださったので、「庆应、フトコロ深いな!」と(笑)。当然、落ちたと思います。ところが合格。父に相谈すると「ご縁は(早稲田より)庆应だろう」と言われ、私もそう思い入学を决めました。
入学后は、司法试験の受験準备を始める一方で、バブル経済真っ盛りの顷でしたから、周囲の学生がみんなおしゃれで、「负けずにおしゃれしなきゃ!」と顿颁ブランドの服を着て顽张っていました。そのうち司法试験の勉强が行き詰まります。勉强のために判例などを読むと事件の当事者の名前が「甲?乙?丙」という无味乾燥な记号に置き换わっている。そこに生身の人间がいないのです。例えば、「大友○○(55)」と名前や年齢などがないと、事件の中身がまるでイメージできません。そこで自分はつくづく非论理的思考の人间なのだと気づきました。どう考えても弁护士に向いていない。そこできっぱりと司法试験は諦めて、またもや映画叁昧の生活に戻っていきます。ゼミは「国际法」を选びました。具体的には宇宙开発の进展とともに问题となっていた人工卫星の破片などの宇宙ゴミ=スペースデブリに関する国际的なルール「宇宙法」について考察しました。これは面白かった。なかなか结论が出せない问题であることも良かった……やはり弁护士には向いていませんね(笑)。