-ニクヨさんは金融?証券、保険业界での勤务経験があり、驰辞耻罢耻产别谤やコラムニストとしても幅広く活跃しています。子どもの顷から、多才で活动的だったのですか?
ニクヨ:とんでもない! 今の私しか知らない方は意外かもしれませんが、10代までの私は本当に内気で、ひどい「コミュ障」でした。姉二人がいる末っ子の私は、年上に囲まれていたせいか、学校の同级生とはあまり话が合わなかったのです。そんなわけで友达も少なく、家でテレビばかり见ていました。运动も苦手でしたが、なぜかプロ野球は好きで、それが数少ない同年代男子との接点でした。何が面白いかというと打率や打点、本塁打、投手の胜ち数や防御率、あるいは球场の観客数など、データ数字の推移を见るのが楽しかったのです。小学生の顷から新闻をよく読んでいて、野球の试合结果が掲载されているスポーツ面以外では株式面も熟読していました。テレビ颁惭で社名を知っている会社の価値が、日々株価という数字で评価されていることに小学生だった私はワクワクしていました。后年、金融?証券などの仕事をするようになったのも、この生来の数字好きに関係しているかもしれません。
その后、中学受験を失败して、高校は地元の进学校に进みました。実は庆应高校、志木高校も受験していましたが、どちらも不合格でした。そのことが本当にショックで、高校入学后はしばらく谁とも口を利かなかったぐらいです(笑)。今は谁も信じてくれないかもしれませんが、私、そんな暗い10代を过ごしていたのです。
-ニクヨさんは読书好きだそうですが、中高生时代から本はよく読まれていましたか?
ニクヨ:はい。中学生の顷は堺屋太一さん、高校时代は落合信彦さんが大好きでした。官僚出身で経済企画庁(现?内阁府)长官としても活跃された堺屋さんからは高付加価値を生み出す人间の知恵の重要性を学んだと思います。落合さんが描く米国政治や石油ビジネスの世界に登场する、情报とインテリジェンスを活用してグローバル社会で活跃する人々にとても憧れました。自分も米国の大学に留学して国际ビジネスの世界に飞び出したい……でも、コミュ障の私にはそんなことはとてもムリ。そこで日本の大学で米国のリベラルアーツに最も近い大学はどこだろう、と探し当てたのが湘南藤沢キャンパス(以下、厂贵颁)でした。厂贵颁设立に尽力され、初代総合政策学部长になった経済学者の加藤寛先生は私の憧れの人でした。「加藤先生に教わりたい!」。その一念で厂贵颁にターゲットを定めて受験勉强に取り组み、今度こそ合格を果たすことができました。
-入学时は环境情报学部で、その后、総合政策学部に転学部されていますね?
ニクヨ:そうなんです。入学してから社会科学系を重点的に学びたいと思うようになり、総合政策学部に移りました。しかしそれ以前に、厂贵颁に入学した私はコミュ障をこじらせてしまい、他の学生と亲しく交流することができませんでした。裕福そうな学生が华やかなキャンパスライフを过ごしているのを横目で见ながら気后れしてしまって……。入学直后に当时、新入生が参加するフレッシュマンキャンプという宿泊行事があったのですが、そこでセクシュアリティを含めて「みんなとは违う自分」を改めて意识させられたことも引きずっていました。
さらに1年生の夏休み、父ががん宣告を受けました。私は当时湘南台で一人暮らしをしていましたが、千叶市の実家に戻り、そのまま大学には行かなくなりました。结局、1年间休学し、翌年の秋に父を看取りました。父には私のセクシュアリティのことを最后まで言えませんでした。その后悔もあったのでしょう、私は同性が好きな自分をホモフォビア(同性爱や同性爱者に対する嫌悪や恐怖)から守り、自分らしく生きるための「理论武装」として、同性爱にシンパシーのある作家の桥本治さんや新宿二丁目のゲイの人たちが书いた本を読みまくりました。特に桥本さんの着书からは自己肯定感を高めてくれる示唆をたくさんいただきました。「人间谁しもいつかは死んでしまう。后悔しないよう自分の生きたいように生きるべき」と背中を押されました。