叁田山上の银杏は文学者にも强い印象を残した。1910(明治43)年に入学した诗人の佐藤春夫もその一人。佐藤は数年后に退学したが、约20年后に「叁田の学生时代を唄へる歌」という副题を添えた「酒、歌、烟草、また女」を発表。その一节に「ひともと银杏叶は枯れて 庭を埋めて散りしけば 冬の试験も近づきぬ 一句も解けずフランス语」とある。ここで歌われている银杏が大公孙树かどうかは定かではないが、彼が叁田キャンパスのシンボルとして银杏を强く意识していたことは确かだろう。
さらに1949(昭和24)年5月、叁田文学会による公开讲座「近代文学の展望」の讲师として叁田キャンパスを访れた佐藤は、新緑の大公孙树に次のように语りかけた。「(前略)ムカシ落叶ヲ踏ミタル校庭ノ公孙树ノ鬱タル緑ニ薫风ノソヨグヲ仰ギ サテ近ヅキテソノ干ニ手ヲ触レツツ 顽健ナルコノ古驯染ニ云フ 伟大ナル友ヨ 君ガ緑ハ年々黄バミテマタ緑ニ 我ガ髪ハ年々白クシテマタ遂ニ緑ナラズ」
義塾でフランス文学を学び、後にフランス語教師として塾生を教えた青柳瑞穂は、詩人としても活躍した。1928(昭和3)年、青柳はカレッジソング「丘の上」の作詞を担当。その歌詞には「丘の上には空が青いよ ぎんなんに鳥は歌ふよ 歌ふよ」とある。この曲が完成した年の秋の六大学野球リーグ戦で義塾は10戦10勝の快挙を成し遂げた。肩を組んで勝利をかみしめるムードにぴったりであることから、以来「丘の上」は早慶戦での勝利の歌として定着することになった。