-大学时代からは作曲にも本格的に取り组まれています。
近谷:大学生になってパソコンと顿罢惭(デスクトップミュージック)のソフトがあれば曲作りも演奏も一人でできることを知って、音楽を仕事にする梦がいっそう膨らみました。2~3年生の顷からプロの作曲家のお手伝いをしたり、庆应义塾创立150年记念演奏会のために祝典オーケストラ曲『150の継承』を作曲し、4年生のときには『塾』に取り上げていただいたことも良い思い出です。当时の誌面に在学生の作曲家として笑颜の私の写真が掲载されていますが、「お前、これからが大変なんだぞ!」と自分に言ってやりたいですね(笑)。
-実际に音楽を仕事にするために相当の紆余曲折があったのですね。
近谷:はい。仲间たちがそれぞれ进路に向かって顽张っている中で、私はどうすれば作曲家になれるのかすら、全くわかっていなかったのですから。结局、大学を卒业してから半年以上は完全なニート生活でした。その间はコンビニでバイトをしていましたが、同级生が初任给で亲にプレゼントをしてあげたなどと、饮み会で盛り上がっている话を闻くと気分が落ち込みました。10年间、庆应义塾で学んだ自分が将来も见えずに暮らしていることが情けなく耻ずかしく、この期间はさすがに学生时代の友人たちとも距离を置いてしまっていました。ただしその间も闷々とした気持ちを抱えながら作曲だけは続けていました。颁惭音楽制作で业界ナンバーワンだった公司一社だけに绞って自作曲のデモテープを送り続け、ひたすら返事を待ち続けたのです。今から考えると无谋なのですが、父が「目指すならその业界ナンバーワンの公司にしなさい」と言った言叶が头にありました。その结果、卒业后半年余りを経てようやくその会社に入ることができたのです。
-ものすごい执念で「作曲家」への道を切り开いたのですね。
近谷:いや、ただ運が良かっただけで決して人にはお勧めできないやり方です(苦笑)。入社すぐの頃は雑用係であまり仕事がない状態でしたが、社内で触れる著名作曲家の膨大な作品データや資料から学んで、自分なりにいろいろなタイプの曲を作って社内プレゼンしてチャンスをつかもうと必死でした。入社後1年ぐらいすると仕事を任されるようになり、それからは年間200~300の楽曲制作に関わりました。確かに目の回る忙しさでしたけど、それだけの数をこなしたおかげでわかったこともたくさんあります。CMのターゲットや商品特性に合わせて曲を生み出すHOW TOみたいなものも身に付きました。そんな生活を4年も続けた頃でしょうか、次のステップを考え始めました。CM音楽の仕事は今でも大好きですが、より幅広く作曲家として羽ばたきたいと考えるようになったのです。そして2015年、27歳のときにフリーランスの作曲家として一歩を踏み出しました。
-独立してからのお仕事は顺调でしたか。
近谷:はい、特に営业活动のようなことはしないまま、会社の先辈やそれまでお仕事をした方々からたくさんの仕事をいただくことができました。仕事の种类もテレビ番组の音楽や映画音楽などこれまでより広がり、笔鲍贵贵驰や叠翱狈狈滨贰笔滨狈碍など着名アーティストへの曲提供やプロデュースなども手がけました。独立して良かったと心から思える日々を过ごしていましたが、そこにコロナ祸がやって来ました。颁惭やイベントがらみの仕事は轩并み中止となり激减。一时はかなりの穷地に陥ったのですが、2021年后半顷よりテレビの仕事を中心になんとか盛り返してきました。テレビ朝日ではワグネルの后辈がプロデューサーとして活跃していて、彼を通じて仕事の话が来ることもあり、感谢しかありません。
最近ですと、フジテレビ系『パリピ孔明』、テレビ朝日系『东京タワー』、テレビ东京系『锦糸町パラダイス~渋谷から一本~』の音楽を担当しています。『パリピ孔明』では、なんと主人公の父亲役として出演するという贵重な経験もできました。现在手がけている『锦糸町パラダイス』では実际に锦糸町を歩いて感じた「无国籍感」を作曲に生かし、民族音楽やロック、サイケなど多彩な曲を作ってみました。视聴者の皆さんがどのように感じておられるのか楽しみです。
ドラマの仕事は面白いですね。私の场合、事前に渡された脚本を読み、自分の头の中で俳优が演じるシーンを妄想しながら楽曲イメージを创り上げます。作っている最中は自分でセリフをブツブツ言いながら作业していますので、とても人には见せられない姿だと思います(笑)。