ヘッダーの始まり
2024/02/27
IDE大学協会の機関誌『IDE 現代の高等教育』が、2024年1月号において「危機を好機に」という特集を組みました。そこに私が『大学と日本の危机-再考』と題した記事を寄稿したところそれなりの反響を得たので、同協会の許可を得て、以下に記事を再掲します。以下の見出しの1と2がIDEに掲載した原文で、今回の塾长室だよりでは、さらに3と4を書き足しました。
『大学と日本の危机-再考』
1. ウサギとカメ
イソップ童话の『ウサギとカメ』では、本来はウサギが速いのだが、油断や昼寝をしてしまい、结果的に地道に着実に休まずに进んだカメに负ける。ここで私たちは「カメのように真面目に进めばよいことがある」と教えられた。ところがものは捉え方である。米ディズニーのアニメでも同様に『ウサギとカメ』の话を取り上げ、それを観た米国の子供たちは「このウサギのように怠けると、本来负けるはずのないカメに负ける」と教えられたという。结局、米国人はウサギ、日本人はカメと自分のことを见ているようだ。
私の専门を例に考えると、1940年代后半に米国でトランジスタが発明され、それを集积して実用化するために必要な科学の理解と技术の开発はまずは米国を中心に进んだ。まさにウサギである。ところが1970年代后半から日本の电子产业が勤勉な工夫と努力を重ねて半导体集积回路を発展させ1980年代后半には日米通商问题に発展するまで日本の半导体素子シェアは世界ダントツになった。カメとしてトップに立った瞬间であった。ところがウサギが怒った。日本人は改良が得意だが、発明は苦手、すなわち创造性に欠けていてヒト真似ばかりと揶揄され、これを真面目に受け止めた日本は反省した。そこでバブル崩壊后の1990年代中旬より、基础研究から产业化までを一気通贯で进める科学技术基本计画が始まり、科学に対する润沢な予算投下が10年ほど続いた。そのころから日本人のノーベル赏ラッシュが始まった。日本の基础科学は、実は科学技术基本计画が始まる前から非常にレベルが高かったことをノーベル赏ラッシュが里付け、ノーベル赏という観点からは、これからもこのトレンドはもうしばらく続くと考える。科学技术基本计画によって日本の一部科学者の间で创造的な成果が大いにあがったからだ。しかし2010年ごろになると、復活しない日本経済に対する焦りが表面化し、多大な基础研究の成果を产业化に繋げられていないという自己批判が始まった。例えば、量子コンピュータの基础的な発明や発见は1990年代后半に日本の研究者が行ったのに、それを产业化したのが欧米の会社ばかりという自己批判。さらに最近では基础研究の分野においても日本の存在感が落ちているという。
自己批判は大切だが、何が问题なのかは整理する必要がある。日本全体で本気でウサギの集団を目指すのであれば、些细な失败やマナー违反などを気にもとめず、得点主义を彻底する教育や社会の构筑が必要となる。小学校から伸びる子は彻底的に伸ばして格差は気にしない。会社でも伸びる人だけが生き残り、终身雇用という概念は取り除き、成绩の悪い従业员は解雇する。国全体がウサギによって繁栄するためには、世界中からウサギを集め、竞争原理を导入する。ウサギは自分たちが突き抜けることを求めるので、利害関係が一致するウサギたちが协力して先头集団を形成する。国の経済や学会などは一部のウサギ集団によって强力に引っ张られるであろうが、格差はさらに広がる。ウサギたちが十分な税金を纳めることによって国家予算が润沢になり、下々の生活もしっかりと支えられる。しかし、このようなウサギ流が日本に驯染むであろうか?
私は米国の大学院で学び、1995年に日本の大学で教职に就いて以来、欧米とアジアの违いに兴味を持ちながら、失われた30年の日本を见つめてきた。半导体物理と量子コンピュータを専门とする私の研究室は2010年ごろには留学生が半分を占めた。フランス、ドイツ、スウェーデン、スペイン、アメリカ、イギリス、韩国などから大学院生が集まり、いよいよ欧米型のウサギ主义の研究室ができると思った。先辈后辈の上下関係がなく、実力主义で、アメリカで私が経験したように実験装置を取り合うといった贪欲な集団になるかと思った。ところがである。集まった留学生は日本の文化を尊重し、自分が研究室に入ったときに先辈たちが丁寧に面倒を见てくれたことに感谢し、同じことを后辈に施す。日本语も学ぶ。ただし研究室での発表や议论は自然と英语が标準となり、研究室合宿は留学生のアレンジで日本人も知らない様々な日本の名所を回るようになった。留学生たちの効率性も高かった。朝早くに研究室に来てしっかりと働き、昼休みをみんなで楽しみ、夕食前には帰って行く。议论好きなので、日本で育った学生たちも自然と巻き込まれる一方、留学生も空気を読むことによって和を保つ日本流を楽しみながら、研究室としてのレベルが一気に上がった。英语での论文执笔となると留学生たちの力量は圧巻であり、日本で育った学生たちは舌を巻きながらも、自らの执笔を手伝ってもらえた。要はラグビー日本代表のように、研究室としては日本流を保ちながらも、世界から优秀な人々が集まる状况ができたのである。结局日本のスタイルはカメなのだ。留学生たちも日本のカメ社会の特徴と长所を実感し、卒业后には日本での就职を选ぶ者もいれば、世界に出ても当然のように活跃している。今の日本では强力なリーダーシップや突き抜ける力が表面的には持て囃されるが、大谷翔平选手のように、大好きな野球に対して着実かつ工夫に満ちた练习を彻底し、一歩一歩阶段を登った结果として、気がついてみると谁よりも高い顶に登っているカメ的な美学こそが日本らしさの真骨顶なのである。日本から多くのノーベル赏が出るのも、激しい竞争をした结果ではなく、自らの好奇心に基づき着実かつ工夫に満ちた研究に没头できる环境を日本が整えていたからである。和をもって尊しの精神を重んじ、教育やビジネスにおいても间违わないことが重视する减点主义の日本であっても、カメとしてどこまでも成长できる环境さえ整えれば、大谷选手やノーベル赏受赏者が生まれてくる。ところが、グローバルスタンダードという名の下で、西洋流のウサギシステムが日本でも持て囃されるようになった。ガバナンス、コンプライアンス、格付け(ランキング)といった本来は得点主义のウサギ集団を対象とする指标を直输入する。それによって改善されることも多い一方で、一切の减点を避けたい真面目なカメたちは、ガバナンスやコンプライアンスの完全遵守に过剰な労力を割き、欧米で持て囃されるトレンドに引っ张りこまれることによって、我が国が夸るカメ流の研究やビジネスの前进が止まる様子が见受けられる。グローバルスタンダードを导入しても、そのシステムをカメのために正しく改良することができなければ、カメの体でウサギのような运动能力を発挥することを强いられてしまい、どっち付かずの袋小路に入ってしまう。これが、私が考える日本の现在の危机である。
2. 危機脱出のためにも正しい第二の開国を
野球、ソフトボール、サッカー、ラグビーの日本代表チームは男女ともに世界レベルで強い。野球、ソフトボールやサッカーでは世界のトップリーグで切磋琢磨する日本人選手が主力となる一方、ラグビーでは世界のトップ選手を日本に招くことにも力を入れ、その一部が日本代表として活躍する。昔で言うところの”助っ人集団”ではなく、海外からの選手が日本チームの一員として日本ラグビーの伝統を大切にし、日本語も学ぶ。結果として日本で育った選手たちのレベルも一気に上がってきた。シェイクスピアの物語詩『ルクリース凌辱』の中の名句であり、ラグビー精神としても知られるOne for all, all for one(一人ひとりが全員のために、全員が一つのチーム?目標のために)は実は日本的なカメ流の真髄であろう。
このような観点から今の日本の大学の危机は明らかである。一人ひとりの教员はすべての学生のために一生悬命に教育に携わっているが、大学という単位では、一つのチームとしての存在意义や一つのチームとしての目标が共有できていない。いや、一つのチームとして、今の社会とこれからの社会を先导するための目标が设定できていないので、共有もできないというのが现状であろう。大学の宝は表现の自由、学问の自由、人権の最重视といったリベラル精神や民主主义であるが、その先にある目标が、个々人の安住と幸せという利己的なものであってはならない。学问によって人间や社会を豊かに平和に导くという崇高かつ大学ならではの利他的な目标を共有し、それぞれの大学が建学の精神に基づき、独自の创造性を発挥することが肝要である。それは大学执行部の仕事であり责任である。本稿の着者である私もそのことを痛感している。
メディア等が盛んに议论する、我が国の大学が直面する危机は多数ある。研究力の低下、教育内容の硬直化と社会的要望からの乖离、国际性の欠如、世界大学ランキングの低迷、财务状况を含む大学経営力の低迷等々、残念ながら枚挙にいとまがない。しかし、すでに述べたとおり、ウサギ用の指标で自分たちを评価することこそが大学や日本社会の危机である。日本の直近の问题は、人口の分布が极端に高年齢にシフトし、働き手とのバランスが崩れていくことである。だから海外から优秀な学生を集め、一人でも定住させたいということであるが、世界大学ランキングが低いと世界から优秀な学生が集まらないという。しかし、西欧が作ったランキングに参加して、本来は西欧を目指す学生を夺い合いすることが得策であろうか?私は、世界に広がる日本人の外交?ビジネスネットワークを活かして、日本に兴味を抱いてくれている若者をどんどんと推荐してもらい、日本の大学等で受け入れて、日本の大学生と混じってもらいながら、育てていくことが何よりも必要だと思う。基础学力という日本の定义に照らし合わせて、当初から优れた留学生が集まるとは限らないが、诚実で努力を重ねることができるカメ型の留学生を一人でも多く集めて、着実な学びを进めてもらうことで、ラグビー日本代表のような日本を作っていけないだろうか?これは大学が単体で进められることではない。初等中等教育も一体となって世界中からカメを集めることを国策として进める必要がある。世界中からカメが集まれば、日本文化と日本语の爱好家が増え、日本人の自らの文化の理解と英语力と多様性への対応も一気に进歩する。日本から海外への留学を増やすことも必要であるが、今の势いで高齢化が进み、高齢者中心の政策がさらに进むであろう日本に、世界を経験した若者が戻って住みたいと思うだろうか?日本から海外への移住は戦前の日系移民のトレンドと思われるかもしれないが、このままでは、これから海外に移住する新しい日系一世が増える可能性が否定できない。海外から日本への移住は増えず、日本から海外への流出が増えれば、日本の空洞化は进む。だからこそ、日本は幕末の时代に次ぐ第二の开国を政策として强力に进める必要がある。その受け皿として教育界と产业界が大胆に进化し、我が国が世界の発展に寄与する新しい道を模索することが、危机を好机に変える一つの道なのではと思う。
(以上が『滨顿贰现代の高等教育』に掲载された记事の再掲)
3. カメにふさわしい学びの環境とは?
カメに必要なのは、颈)好きな科目や趣味がとことん追求でき、颈颈)そのことが周りから尊敬され、颈颈颈)その特技を仲间に教えることで周りに加えて本人までが学びを深められる环境だと私は考える。颈)が大谷翔平选手やノーベル赏につながる学びと挑戦のための环境であり、好きこそものの上手なれという个性を伸ばす环境である。颈颈)は多様性の原点となる环境である。「男の子であればスポーツ!」といった画一的な学びの环境では个性は伸びない。性别に依らず、算数が得意、絵が得意、踊りが得意、将棋が得意、ボランティア活动が好きといった様々な个性を互いが尊敬して认め合う社会を作っていくことである。科目や趣味の违いでの优劣はない。好奇心を持って互いのことを知る环境が必要であり、そのためにも互いに教え合う颈颈颈)の环境が大切であり、ここからチームワークが育まれていく。まさに独立自尊の精神に则って自らを尊び、だからこそ周りも尊ぶ。そして、「一身独立して一国独立する」の教えのとおり、个々の独立とつながりを仲间同士での独立につなげていく。
要は、今のように、学年で缚ってそれぞれの教科の进度を制限してしまうと、着実に伸びるはずのカメの伸びが成长途上で头打ちにされてしまうということである。例えば、小学校レベルから、算数が好きな生徒はさらに上の学年のカリキュラムへの挑戦を自然な形で促すと同时に、クラスの仲间に算数を教える机会を与える。タブレットや础滨技术を使えば、ゲームでステージをクリアするように学年の枠を超えたレベルアップが可能で、一人ひとりの生徒のカメとしての着実な伸びが阻害されずに済む。大谷翔平选手の例に戻れば、野球という分野において自らの着実な発展が得られる环境を彼は选択してきたし、里を返せば彼にはそのような环境が选択肢として用意されてきた。そしてプロレベルでもピッチャーとバッターの二刀流という常识外れの环境を北海道日本ハムファイターズが整备した。このような环境を様々な科目や课外活动で準备していくべきであろう。
一方で、最低限の総合力は保証する学びの场を整备することも大切となる。谁にでも求められる能力、すなわち、吸収する力(読む力、聴く力)、発信する力(书く力、话す力)、解析して计画する力(论理性、算数、滨罢ツール)、作る力(理科、技术)、交流する力(议论する力、协働する力)を総合的に学ぶ环境整备が必要となる。学校に求められるのは、この最低ラインを保証しながら、一人ひとりのカメがそれぞれの得意领域で进み続けるための环境の整备である。国语?算数?理科?社会?英语(语学)といった科目の知识に関する部分は、授业の中で个々人がタブレットを用いて自分のレベルで学びを进め、教员は最低ラインの确保や集中力の养成に力を注ぎ、进行が速い生徒は时间を割いて他を教える。作文、论文作成、実験、芸术、工芸、音楽、スポーツ等の実技の科目やクラブ活动でも、レベルアップすることで他から尊敬され、そして、他を教える経験を导入する。その上で大切なのが実践である。大谷翔平选手が伸びたのは野球という実践を通して成功も失败も体験し続けたからである。何のために学ぶのか?それは社会をよくするためである。発展させるためである。よって、早くから生徒?学生が力を合わせて世の中を発展させる活动に取り组むことが特に求められる。様々な状况を観察し、吸収し、考え、议论し、改善案をまとめ、活动に移す取り组みである。翱贰颁顿が実施する15歳の生徒を対象に数学、読解力、科学のリテラシーを调査したの结果によると、2022年の时点で日本の15歳は数学と科学で翱贰颁顿加盟国中1位、読解力はアイルランドに次いで2位と极めて高い评価を得ている。一方、同じ2022年に日本财団が行ったによると、日本、アメリカ、イギリス、中国、韩国、インドの中で、日本の18歳は以下の6つの质问に対する「はい」の割合が目を覆いたくなる大差でのビリである。「自分は大人だと思う」、「自分は责任がある社会の一员だと思う」、「自分の行动で国や社会が変えられると思う」、「国や社会に役立つことをしたいと思う」、「慈善活动のために寄付をしたい」、「ボランティア活动に参加したい」。このビリは何を意味するか?野球に例えると、筋力や走力やテクニックという个别のランキングではトップだが、野球というゲームをしたことがない、または、野球というゲームに活かすことができていないということである。これでは何のための学びだかわからない。大学入试のための学びだとしたら、ますます、大学の入试のあり方を考え直す必要がある。
4. まとめ -非西洋諸国の近代化は可能か?-
国際協力機構(JICA)前理事長で東京大学?立教大学名誉教授の北岡伸一氏は、最も尊敬する人物として福澤諭吉をあげている。その北岡氏は著書『独立自尊 -福沢諭吉と明治維新-(筑摩書房)』の中で、福澤が生涯追い求めた問いが「非西洋諸国の近代化は可能か?」であり、その実現方法の模索こそが福澤の人生だったことを紹介している。そう、現代においても日本の日本らしい近代化を実現することこそが今の私たちに受け渡されたバトンなのである。福澤先生は著書『学問のすゝめ』において、人間の価値は学ぶか学ばざるかによって決まるものであり、学び続けることによって職分(仕事)を全うすることがその人の価値、すなわち、名分(尊敬や役職)につながると述べている。生まれた家や境遇によって名分が決まるのではない。また『文明論之概略』の中では、日本に存在する先輩後輩(年功序列)、男子女子、新参古参、本家末家といった主従関係や権力の偏りの問題を指摘している。このような実力に基づかない主従関係は、主側に位置する者の怠慢を招き、全体をコントロールする立場にある者が真摯に学び続けることを妨げる。先の第一節で私の研究室における留学生の事例を紹介したが、研究室に先に入った者が研究のやり方や装置の使い方を新参の学生に教えるのは、年功序列による先輩だからではなく、先に学びを重ねた結果として実力的に教える立場にいたからである。留学生が、年代的には先輩にあたる学生の英語での論文執筆を助けてあげるのも実力による協調の好例である。ここに主従関係や権力の偏りは存在せず、同等の立場でありながら、教えることができる人が他を助けるという、実に日本的な和が生まれていたのである。
ここまでの、教育を中心とした话の延长は明らかであろう。日本の职场においても同じことを実践しなければならない。年功序列、性别、国籍、学歴といった差别要素を排除して、谁もがカメとして伸び続ける环境を用意することが望ましい。同时に、実力者が他の仲间を助ける活动を奨励して、それを皆が感谢し评価することが、様々な违いを乗り越える平等な职场の形成につながり、结果として互いに尊敬し合いながら皆で前に进めるチームが形成される。そして重要なことは、「ウサギとカメ」の话が、结局は谁が胜つかという竞争であったことだ。大谷翔平选手も野球に胜ちたいという一心で実力を伸ばしてきた。仲间同士で力を合わせ、真剣胜负として、非西洋国である日本の新しい近代化を成し遂げるためには、西洋のルールやコンプライアンスやガバナンスを后追いするだけではなく、自らの価値観に基づき、竞争と协调を组み合わせた社会システムを作り上げていく必要がある。その実现によって、日本が协调的なカメ型人材にとって魅力的な国となり、海外から人が集まるのみならず、世界を経験した日本人が母国として帰りたい国となるのであろう。
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