1905年、気鋭の社会学教授?田中一贞が庆应义塾初代図书馆监督(馆长)に就任した。その顷から义塾の学术を支える本格的な図书馆をつくろうという机运が高まっていく。海外の大学図书馆事情にも通じていた田中はある讲演で「図书馆建筑で最も留意すべきこと」として、防火、経済(効率的な书籍保存)、将来への拡张计画(増筑など)の3つを挙げている。
1906年に庆应义塾创立50年を记念した図书馆の建设计画が决まり、资金を広く募集した。寄付はすぐに目标额30万円(当时)を超えたが、そこで一波乱が待っていた。図书馆を木造にして建筑费を抑え、残りのお金で工科(大学)を设置しようという议论が出てきたのだ。しかし当时の鎌田栄吉塾长は図书馆を建造する名目で集めた资金を别の目的に使うことは「天下に信を失ってしまう」もので、図书馆は不燃物で建てなければならないと断固反対した。かくして炼瓦造りの図书馆の建造が决まり、明治最后の年である1912年4月に、赤い炼瓦にアーチ型の窓、ネオ?ゴシック様式の瀟洒な図书馆が叁田山上に姿を现した。