久保田万太郎の句碑にその名を记された「新剧の父」小山内薫。その胸像は、1958年に彫刻家の朝仓文夫により作られ、当初は歌舞伎座の别馆売店前に设置された。
小山内は1910年から22年まで庆应义塾大学文学科などで剧文学の讲义を担当。小山内着任の年に创刊された『叁田文学』をはじめ、叁田文坛に多大な影响を与えた。1928年、47歳の若さで急逝した际、庆应义塾社中の人々は遗された妻と3人の子供のために教育基金を募り、集まったお金を遗族に赠っている。
そうした縁もあって、歌舞伎座の胸像が1964年8月に叁田キャンパス西校舎と当时の第3研究室栋の间に移设された。この场所は、小山内が「筑地小剧场」旗扬げの発端となる讲演会を开いた旧大讲堂に近いという理由だった。移设の际に胸像は谷口吉郎の意匠による台石に载せられた。