『学问のすゝめ』は当初から一册の书物としてまとめる构想で着述されたわけではなかったようだ。もともとは明治5(1872)年2月から同9(1876)年11月にわたって断続的に出版された17の小册子で、同13(1880)年7月に福泽自ら合本し、一册にまとめたものが现代の私たちが知る『学问のすゝめ』である。
同4(1871)年、福泽は郷里の中津(现?大分県中津市)に英学校设立を勧め、同年11月に中津市学校が开设された。『学问のすゝめ』は、福泽がこの市学校で学ぶ青年に向けて新しい学问の在り方を説いた読本だった。题笺(书名を记した短册状の用纸)は『学问のすゝめ 全』となっており、当初は続编を出す意図はなかったと考えられている。
しかし、新しい时代の幕开けを高らかに宣言したその内容が世间で大きな反响を呼び、およそ2年后には続编の「二编」が刊行されることになった。その时点で『学问のすゝめ 全』は「初编」と位置付けられた。