庆应义塾の起源となる江戸?鉄砲洲(现在の中央区明石町)中津藩中屋敷内の兰学塾で、福泽諭吉と塾生たちは寝食を共にして学んだ。义塾の寄宿舎の歴史はここから始まる。やがて各地から优秀な若者が多数集まると従来の寄宿舎では手狭となり、1868(庆応4)年に芝新銭座へ移転。新しい寄宿舎は、自治会规则など「独立自尊」の考えを踏まえた塾生の自治が大きな特色だった。
明治维新后、塾生数が急増した塾舎は、现在の叁田キャンパスの地、旧岛原藩中屋敷に移転した。屋敷の一部を利用した寄宿舎はすぐに収容定员を超え、さらに増筑。これは昔の屋敷を改造したものではあったが、当时の最高水準の近代的建物として新桥停车场などの模范となった建筑といわれている。日本初の消费组合(现在の生协に相当)が生まれたのもこの寄宿舎だった。
1900(明治33)年、叁田山上北侧(旧幼稚舎の敷地)に400人を収容する新寄宿舎が竣工した。やはり塾生による自治が行われ、教职员も塾生も寮生として平等に扱われていた。设备として浴室のほか、理髪室や娯楽室を完备。寝室にはベッドとスチーム式の暖房が置かれ、日照と通风に配虑がなされるなど、特に卫生面に注意が払われた。