「和田塾」から现在に至るまでの幼稚舎の教育は、一贯して福泽諭吉の教育観に基づくものである。福泽は「教育の力は唯人の天赋を発达せしむるのみ」、すなわち一人一人の生まれつきの才能を伸ばすことが教育の目的と考えていた。教员と塾生が苦楽を共にしてお互いに学び合う「半学半教」の精神もそこから生まれたものだ。もう一つ福泽が初等教育で重视していた考えは「まず獣身を成してのちに人心を养ふ」だった。つまり、幼少期にまずは丈夫な体をつくり、それから精神、知育へと徐々に移行していくことが良いと説いた。柔术の达人で、温和な人柄と伝えられる和田はそうした福泽の初等教育観に最适な人材だったと思われる。草创期の幼稚舎では、时には子どもたちに技をかけられながら、和田自身が柔术を指导していた。
大正半ば顷から幼稚舎では体育の授业以外に、林间学校、海浜学校、海上旅行など、自然环境の中で心身を养い、锻える校外学习が加わった。いずれも10日ほどの日程で、现地の地理や歴史などの学习も行っていた。现在の幼稚舎でも年间を通じて、多彩なスポーツ行事、远足?宿泊行事が予定されており、心身ともに健康な子どもたちを育てる伝统は今でも変わらずに続いている。